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十年間お互いに独身だったら結婚する約束の比奈とPとオトナになりたい佐々木千枝

1 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:19:00 ID:ohA
このお話は下記のお話たちの続編に位置しています。


【モバマス】十年後もお互いに独身だったら結婚する約束の比奈と(元)P


【モバマス】佐々木千枝を生贄に捧げる


【モバマス】あと八ヶ月で結婚する約束の比奈(29)と(元)P


川島瑞樹(32)は顕現する


荒木比奈(33)は慟哭する

それぞれ、清書版は渋に同名でアップしてあります。
ミスの修正等もしてありますのでお好きな媒体でお楽しみください。

以下のお話は、全5パートで構成しています。
このうち2パート目までは、多少のことに目をつぶればシリーズ未読でもお楽しみいただけるかと思います。

3パート目以降も続けてお読みいただく場合は、
シリーズのうち少なくともA,B,Eはお読みいただいていないと、お楽しみいただけないかと思います。

これまでと多少趣が異なりますので、どうぞご了承ください。

2 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:21:55 ID:ohA
1.オトナになりたい佐々木千枝

Scene-N2-5+(+9y)
(あらすじ:ゲーム時間から九年後。佐々木千枝は二十歳を迎え、国内でトップクラスのアイドルとして活動していた。
佐々木千枝は五年前に活動を終了したブルーナポレオンの当時のプロデューサーに想いを寄せ続けており、櫻井桃華の助けを借りて桃華の邸宅内で千枝と元プロデューサー、二人きりの成人のお祝いをした。
千枝はその席でついにプロデューサーに想いを告げる。しかし九年前「十年後もお互いに独身だったら結婚する」という約束を荒木比奈と交わしていた元プロデューサーは、千枝の想いを断った。)


 カーテンの間から差し込んでくる朝日の眩しさで、私は目を覚ました。
 いつもと景色が違う。ああそうだ、桃華ちゃんの家に泊めてもらったんだった。桃華ちゃんと一緒のベッドで眠って、それで――
 首を動かしてみる。ベッドの上には私しかいなかった。桃華ちゃんはもう起きたんだろうか。
 身体を起こす。ほんの少しだけ頭が重かった。体調不良かと思ったけど、すぐに思いなおす。きっと舞い上がっちゃって慣れないお酒を呑んだから、まだ身体に残ってるんだ。
 半分くらい眠ったままだった頭がようやく働き出して、昨日起こったことを整理して再生していく。
 私が九年間想い続けた、ブルーナポレオン活動当時のプロデューサーさん。二十歳になったらオトナのお酒を教えてもらう、というコドモのころの約束を持ちだして、二人きりでお祝いしてもらって、その場で、想いを伝えて――私の想いは、受け取ってもらえなかった。
 はじめから結果がわかっていたことだった。あの人は、同じブルーナポレオンのメンバーだった、荒木比奈さんと想いあっていたから。
 残念だけれど、でも勇気を出せてよかった。
 悔いはないけれど、まだ昨日の事を思い出すと胸が締め付けられるような気持ちになる。
 私はベッドから立ち上がって、ゆっくりと深呼吸した。
 きっと私はこれから、昨日のことを何度も思い出す。けれどそれも受け止めて前に進まなきゃ。

3 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:22:32 ID:ohA
「おはようございます、千枝さん」桃色のドレス姿の桃華ちゃんが部屋に入ってくる。「朝食の準備が出来ていますわ」

「うん、おはよう、桃華ちゃん。昨日はお世話になりました」

 私は桃華ちゃんにお礼を言う。

「どういたしまして」桃華ちゃんはスカートをつまんで、優雅に礼をする。「さあ、スープが冷めないうちに……」

「うん、そうなんだけど……」

 私は部屋の中を見渡す。

「どうなさいましたの?」

 桃華ちゃんは首を傾げた。

「荷物をまとめていたら、見つからないものがあって、探してたの。この部屋の中にあるはずなんだけど……」

「探し物はなんですの?」

 桃華ちゃんに問われ、私はこの部屋でなくしたと思われるものの名前を挙げた。

「……おかしいですわね、それなら私も昨日確かに見ましたし、昨日の夜からはメイドがこの部屋に掃除に入ることもなかったはず……探させましょうか?」

「ううん、いいよ」私は首を横に振る。「もう、必要なくなっちゃったから」

「……わかりましたわ。もし見つかったら、連絡するようにしますわ」

「うん」

「では、行きましょう」

 私と桃華ちゃんは寝室を出る。出るときに、私はもう一度部屋の方を振り返った。確かに持って入ったはずなのに、どうしてなくなってしまったんだろう。
 桃華ちゃんの後ろについて廊下を歩くと、昨日、私が元プロデューサーさんと食事をした部屋の扉が見えてきた。扉は開いていて、通り過ぎるときに部屋の中が見えた。
 部屋の中央には何も載っていないテーブル。部屋の奥には、昨日はカーテンをかけたままだった窓から朝日が差し込んでいる。
 昨日、あの人が座っていた椅子を見ながら、私はぼんやりと考える。
 もしも、私がもっと早く、もっと強くあの人へのアプローチをしていれば、違う未来があったのかな――

4 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:23:22 ID:ohA
Scene-n4-4+ (+4y)
「瑞樹さん、すごいです! 私も……瑞樹さんみたいな、どんな時でも前を向けるオトナになりたいですっ! ありがとうございました!」

 私は感謝の気持ちを込めて頭を下げて、川島瑞樹さんの病室を後にした。
 結成から四年を迎えたブルーナポレオンラストライブを前に、瑞樹さんの身に起こった事故。瑞樹さんは足を怪我して、ライブ当日のダンスは絶望的な状態だった。
 それでも、瑞樹さんは前を向いていた。瑞樹さんの病室に集まったブルーナポレオンの他の四人のメンバーたちに、瑞樹さんは今の状態でできる新しい演出を提案した。その案に、私は本当に驚かされて、心が躍るような気持だった。
 どんなときでも前を向ける瑞樹さんは、すごい。

「千枝ちゃん、どうしたの? 時間がかかってたみたいだったけれど」

 先に病室を出ていた松本沙理奈さんが扉の前で私を待ってくれていた。少し離れたところで比奈さんと上条春菜さんが熱っぽくなにかを語り合っている。
 きっと、あの二人も瑞樹さんのアイデアで熱が入ったんだろうな。

「プロデューサーと瑞樹さん、二人っきりにしておくのが心配だったとか?」

「ち、ちがいますっ!」

 私は思わずムキになってしまって、言ってから頬が熱くなるのを感じた。

「うふふ、冗談冗談!」沙理奈さんは笑って、小首を傾げる。「千枝ちゃん……ずっと憧れてるんだね、プロデューサーに」

 沙理奈さんに言われて、私は胸がちくりと痛んだ。

「……でも、プロデューサーさんには、比奈さんが……」

 言いながら、恥ずかしさとちょっと惨めな気持ちが混ざって、私は下を向いてしまう。
 プロデューサーさんと比奈さんは、あと六年経っても二人とも独身だったら結婚するっていう約束をしていた。
 プロデューサーさんと比奈さんは、その約束は内緒のつもりらしいし、お互いに恋人がいないことを冗談めかして笑いあっている。けれどその約束はブルーナポレオン以外の皆にも知れ渡っていたし、
二人が本当は信頼し合っているということは、誰にだって、まだまだオトナになれない私にだってよく分かった。
 沙理奈さんの言う通り、私はプロデューサーさんにずっと憧れている。けれど、プロデューサーさんと比奈さんを見ていると、私なんかじゃ敵いっこないかって、気持ちが逃げてしまう。

5 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:23:49 ID:ohA
 沙理奈さんは比奈さんたちのほうをちょっと見てから、私の肩に手を置いた。

「アタシは千枝ちゃんも比奈ちゃんも大事だから、どっちかを贔屓したりはできないけど……でも、これは言っておくね。気持ちはちゃんと伝えなきゃ、後悔するよ」

 沙理奈さんに言われて、私は胸になにか重たいものがぶつかったような気持ちになった。

「好きな相手にはしっかりアプローチしなきゃ。プロデューサーみたいに、いま他のコのこと見てる相手ならなおさらだよ。たくさんアピールして、私を見てって振り向かせるの。恋は戦争なんだから」

 沙理奈さんの言葉は、耳に痛かった。

「そう、ですよね」

 私は想像した。もし、プロデューサーさんと比奈さんが結ばれたら――それはとっても嬉しい。どちらも大好きな人だから。けれど、もしも私が何もせずにその日を迎えて、ただ気持ちをしまい込むだけになってしまったらと考えると、とても怖かった。
 沙理奈さんの言葉を胸に刻んで、少し悩んで……私は思い切って、気持ちを前に進めることにした。

「……私、もっとプロデューサーさんにアプローチしてみます」

「おおっ」沙理奈さんは嬉しそうな声をあげる。「いいと思う。千枝ちゃん、がんばって!」

「はいっ!」

 私は島村卯月さんがよくやるみたいに、胸の前で両方の拳を握って自分を奮い立たせた。
 でも、私達から離れたところでまだ春菜さんと話している比奈さんを見て、私は少し不安になった。比奈さんは知り合ったときも優しそうできれいな人だと感じたけれど、一緒に活動してから四年、比奈さんはますますきれいになって、プロデューサーさんとも仲良くなっている。
 まだまだコドモの私じゃ、足元にも及ばないんじゃ――

6 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:24:38 ID:ohA
「大丈夫!」

 沙理奈さんは私の不安を察してか、私の頭をわしわしと撫でた。

「比奈ちゃんに敵わないんじゃないか、なんて考えてたでしょ? 千枝ちゃんは今だって比奈ちゃんに負けないくらい魅力的だし、それにね、恋するオンナは強いんだよ? どんどんキレイになるんだから。絶対、プロデューサーがほっとかないいいオンナになるよ!」

 沙理奈さんに見つめられる。

「……はいっ!」

 沙理奈さんに感謝しながら、私は自分の心を奮い立たせた。

「うん! そうだ、千枝ちゃん、これあげる」

 沙理奈さんはバッグの中から、くすんだ先割れスプーンにハンカチを巻いたものを取り出す。

「これ……」

 私は沙理奈さんが差し出したものを受け取る。ちょっと前に流行ったおまじないのお人形で、スプーンの先を顔に見立てて、ハンカチをマントみたいに巻き付けている。
 持っていると悩み事が解決し、解決したら次の人に渡すのがそのおまじないのやりかただった。確か、美城プロダクションのアイドル、堀裕子さんがサイキックで開発したんだっけ。
 オフィシャルグッズとしてなかなかいい売り上げになったらしいって、プロデューサーさんが言っていた。

「ずいぶん、年季が入ってるというか……」

 そのスプーンのお人形は、顔もほとんど消えてしまっているし、ハンカチも端がほつれたり擦り切れたりしてボロボロになっていた。人から人へ渡るおまじないだから、きっと、たくさんの人を渡り歩いてきたんだろう。

「そうなの。アタシが貰ったときにもずいぶんボロボロだったから、あまり仲良くない人に渡すのも気が引けちゃって。
瑞樹さんのお見舞いにって思ったんだけど、瑞樹さん思った以上に元気そうだったじゃない? タイミング逃しちゃったの。だから、千枝ちゃんの恋のお守りになればいいなって」

「ありがとうございます、大事にします」

 私はそれを丁寧にバッグにしまった。

「頑張ってね」

 沙理奈さんは、にっこり微笑んで私を励ましてくれた。
 この日、私は変わろうって、決心したんだ。

7 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:25:26 ID:ohA
Scene-n1-5(+9y)
 それからの私は、もしそれまでの私が聞いたら驚くくらいに、積極的にプロデューサーさんにアプローチしていった。
 ブルーナポレオンのラストライブが終わって、瑞樹さんはアイドルを引退、私や他のメンバーのみんなにはそれぞれ新しいプロデューサーさんがついた。
 私が恋したプロデューサーさんは、ブルーナポレオン活動休止の二年後に美城プロダクションを離れることになった。あの人はほかの会社から誘われて移るって言ってたけれど、
比奈さんとの約束を知る人たちはみんな、比奈さんと結ばれてもいい立場になるために準備してるんだろうって噂をしていた。
 アイドルとしての私のお仕事はどんどん忙しくなっていった。私の新しいプロデューサーさんはかっこいいお姉さんのような人で、私を一流の女優としても通用するように育てようとしてくれていて、お芝居やドラマのお仕事をたくさんとってきてくれた。
 仕事で忙しい中でも、私はあの人に連絡をし続けた。毎日のちょっとしたことをメッセージで伝えあったり、困ったことがあったら電話で相談に乗ってもらった。他のアイドルの誰かと一緒に、あの人を誘って遊んだときにはできるだけあの人のそばにいるようにして、
沙理奈さんのアドバイスに従って、チャンスのときには積極的に身体に触れるようにした。私が成長するにつれて、プロデューサーさんが少しずつ、私をコドモじゃなくて、一人の女の子として接してくれるようになるのが嬉しかった。
 でも、二人きりで会うのだけは、あの人に何度お願いしても受け入れてはもらえなかった。

8 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:25:40 ID:ohA
 仕方がないことだって、自分でもわかってはいた。もし一緒にいるところをマスコミに知られたりしたら、あの人にも大きな迷惑がかかる。あの人にはプロデューサーの経験があるから、アイドルのスキャンダルがどれだけ大きなことなのかもよく知っている。
 それでも、私はあの人と、二人きりで会いたいと思い続けていた。コドモのころから抱き続けた憧れは、もうはちきれそうなくらいに大きくなっている。
 私が二十歳を迎える年の四月。私は、ついに、前に進むことにした。

9 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:26:23 ID:ohA
 自室で今のプロデューサーさんへのお仕事の連絡を終えてから、スマートフォンの画面に元プロデューサーさんの連絡先を表示する。いつもしていることなのに、今日は心臓が喉から飛び出してしまうんじゃないだろうかと思うくらいに緊張する。

「……そうだ」

 私は自室の棚の上に置いてある、沙理奈さんから貰ったスプーンのお人形を持ってきて、テーブルに置いた。
 悩みを解決してくれるおまじないのお人形。五年前にこれをくれた沙理奈さんにも、あれからたくさん背中を押してもらった。きっと、このお人形なら、今日の私のことも助けてくれるはず。
 一つ深呼吸して、私は緑色の通話マークのボタンを押した。

「――千枝、どうした?」

 数回のコールのあと、電話の向こうから優しい声が返ってくる。意識しないようにしても、声を聞けただけで嬉しくて、私の口角はちょっと上がってしまう。

「突然電話して、ごめんなさい。お仕事中ですか?」

「いや、部屋でご飯するとこ」

「お食事中にごめんなさい」

「大丈夫、まだ食べ始めてない」

「それじゃあ、冷めちゃう前に」私は口に出した。そう言ってしまえば、私は前に進むしかなくなるから。「あの、再来月の七日」

「ああ、千枝の二十歳の誕生日だよね?」

 誕生日、覚えててくれたんだ。それだけで舞い上がってしまう。

「はいっ。あの……あの、ずっとずっと前、約束したの、覚えてますか? 二十歳になったら、オトナのお酒を教えてくれるって」

10 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:26:58 ID:ohA
 私が言うと、少しの間、沈黙があった。

「うーん……ごめん、正直、覚えてない」あの人は困ったような笑い声で言う。「でも、千枝がそう言うなら約束したってことだよね。そしたら……約束は守らなきゃだめだよね」

 私の心臓が大きくひとつ鼓動した。プロデューサーさんは、私との約束を守ってくれるつもりだ。何年も前の、ただの背伸びしたコドモだった私との約束を。

「はいっ。お願いします。あの、二人……二人きりで、オトナのお酒、教えてください!」

 私が言い切ると、また、電話の向こうで少しだけ沈黙が流れた。
 それから、あの人は、優しく諭すような声で話し始める。

「お祝いについて、いくつか条件をつけるよ。日付は七日じゃなくて、それよりもあとの日にすること。七日がオフでも、その日は家族と過ごして。
過去とはいえ大切なお嬢さんを預からせてもらった身として、その日を奪ったらご両親にも顔向けができなくなる。二つ目、今のプロデューサーに必ず報告すること。最後に、千枝はアイドルなんだから、二人きりじゃなくて――」

「二人きりがいいです」

 私はプロデューサーの言葉を遮るように言った。言葉と一緒に心臓が口から飛び出しそうな気がして、私は空いてる方の手で胸を押さえる。
 でも、これは私だって譲れない。

「一つ目と二つ目はわかりました、でも、最後の条件は、嫌です」

 私ははっきりと口に出した。電話の向こうで、あの人の困ったような短い唸り声が聞こえた。

「大丈夫です」

 私はすぐに言葉を続ける。私のアイドルとしての経歴を守るために、あの人は、私と二人で会うことを必ず断ると思っていた。だから、私も、二人で会うことを了承してもらうための手段を先に用意していた。

「誰にも怪しまれたりしない場所があるんです」

 そうして、あの人はついに折れて、私はあの人と二人きりで過ごす約束をとりつけることができた。

11 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:27:37 ID:ohA
 元プロデューサーさんとの通話を終えて、私はスマートフォンをそっとテーブルに置いて、テーブルに突っ伏した。
きっと、顔はかっこわるくらいににやけちゃっている。嬉しくて踊りだしてしまいそうなくらい、気持ちが高揚している。

「プロデューサーさんと、二人っきりだぁ……えへへ……」

 口に出してみる。つい昔の呼び方になっちゃった。
 あらかじめ櫻井桃華ちゃんにお願いしてあった。桃華ちゃんのお家に私と元プロデューサーさんが別々に集まって、桃華ちゃんの家の中で二人きりになる。この方法を提案して、あの人はようやく、了解をしてくれた。

「……そうだ」

 私はもう一度スマートフォンを取って、今度は今のプロデューサーさんに連絡をする。スケジュールの話もしないといけないし、時々私の恋の相談相手になってくれていたプロデューサーさんにも、報告をしたい。

「もしもし、どうしたの?」

 すぐにプロデューサーさんは応答してくれた。

「何度もごめんなさい。あの、プライベートのスケジュールがひとつ増えたので、その連絡です」

 私は、今のプロデューサーさんに、元のプロデューサーさんと二人で会うことを伝えた。けれど。

「……そう」

 プロデューサーさんの返事の声は、いつもより少しだけ、暗かった。
 電話が終わったあと、私はそれを少しだけ不思議に思ったけれど、舞い上がっていたせいかすぐに忘れてしまった。

12 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:28:29 ID:ohA
 そして、六月半ばの、私のオフの日。私は桃華ちゃんの家の一室で椅子に座って落ち着かない時間を過ごしていた。

「ああ、緊張……するなぁ」

「あら、今の千枝さんならきっと、お会いになる殿方のほうが何倍も緊張しますわ」

 桃華ちゃんがにっこり笑う。
 私は姿見で自分の格好をもう一度チェックする。ブルーナポレオンの活動が終わった頃から、沙理奈さんや瑞樹さん、お仕事のときに担当してもらうスタイリストさんに、オトナのファッションを教えてもらった。
今日はせっかく自分の勝負の時だから、自分が考える一番綺麗な自分を見てもらえるように気を付けた。
 今日のために伸ばしたと言っても過言ではないロングヘアにゆるくパーマをかけて、落ち着いた薄い青色のノースリーブのニットと黒いワイドパンツ。ネックレスとイヤリングも派手過ぎないように、メイクはカジュアルに、目元の印象が残るように。

「プロデューサーさん、どうかな?」

 私の今のプロデューサーさんに尋ねてみる。プロデューサーさんは、食事に同席はしないけれど、アイドルと男性が二人で合うのを全く放っておくわけにもいかないから、と言って、この部屋で待機することになっていた。

「……うん? あ、ああごめんね」プロデューサーさんははっとしたように私を見た。「そうね、素敵よ、千枝」

「ありがとう、プロデューサーさん」

 私は笑顔で返事をしたけれど、プロデューサーさんは何かを心配しているみたいに、腕組をして落ち着かない様子だった。

「……そろそろかな?」

 私はスマートフォンで時間を確かめようと、バッグを開いて――バッグに忍ばせていた、沙理奈さんからもらったスプーンのおまじないのお人形が目に入った。
 私はバッグの中に右手を入れて、その柄を握ると、強く願った。どうか、私に勇気をください――

13 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:46:10 ID:ohA
 そのとき、部屋の扉が開いて、桃華ちゃんの家のメイドさんが桃華ちゃんに合図をした。

「わかりました。千枝さん、到着されたようですわ。お食事のお部屋へお通しします。すぐ隣ですわ」

 桃華ちゃんがドアの外を手のひらで示した。私の心臓の鼓動が大きくなっていく。

「じゃあ……行ってくるね、プロデューサーさん」

「ええ」プロデューサーさんは優しい笑顔で言った。「しっかりね」

 私はひとつ深呼吸をして、あの人との初めての二人きりのデートの場に向かった。

14 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:46:45 ID:ohA
 食事のための部屋は、絨毯敷きでシックな雰囲気の部屋だった。窓がひとつあるけれど、カーテンがかかっている。中心にテーブルが置かれていて、テーブルには向かい合わせに椅子が二脚置かれていた。
 ――自分でも驚くくらいに自然に、手が伸びた。
 向かい合わせに置かれた椅子のひとつを持ちあげて、もう一つの椅子から右手側の位置に動かす。たしか、向かい合わせに座るよりこっちのほうが心理的に親密に感じるって、財前時子さんに前に教えてもらった。
 ほどなくして扉が開き、桃華ちゃんが部屋の中をのぞき込み――椅子の位置が変わっていることに気づいて「あら?」と声を漏らして、すぐに意図に気づいたのか、私を見てウインクした。

「千枝さん、お見えになられましたわ。どうぞ、こちらのお部屋です。ごゆっくり」

 桃華ちゃんが部屋の中を手で示すと、それに導かれて、あの人――私の元のプロデューサーさんが入ってきた。

「いやー、初めて来たけど、すごい家だなぁ」

 久しぶりに――それこそ半年くらいぶりに、画面ごしじゃない顔を見て、私の胸が高鳴る。恥ずかしくて顔が下を向いてしまいそう。
 でも、私はちゃんとあの人の顔を見つめるように努めた。せっかくの機会なんだから、下を向いた私じゃなくて、正面から見てもらいたかった。
 あの人と一瞬見つめ合う。何か言わなきゃ。

「えへへ……来てくれてありがとうございます。わがまま言って、ごめんなさい」

 私は頭を下げる。声を出したことで、緊張が少し紛れた。

「ああ……気にしないで。座ろうか」

「はい」

15 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:47:23 ID:ohA
 私たちはそれぞれ椅子に着く。すぐ目の前に、あの人がそこにいる。どんなに難しいお仕事よりも、心が落ち着かなくて、唇が震えだしてしまいそうだった。

「とりあえず飲み物を……これ、呑んでいいってことだよな」

 あの人は銀色の器で冷やされているお酒のボトルを持ちあげると、ピンク色のかわいらしいラベルを私に向けて見せてくれた。
 桃華ちゃんが、お酒に強くなくても呑みやすいあまり強くないお酒を用意してくれるって言ってたっけ。
 あの人は慣れた手つきでボトルのコルクを抜くと、私にグラスを取るように促した。ほんのすこしだけ黄色がかった透明の液体が、私が持つグラスに注がれた。
 あの人は瓶を置いて、穏やかな笑顔で私にグラスを向ける。
 やっと。やっと、待ち焦がれていた、お酌する夢をかなえられる。私は瓶を落とさないように両手で支えて、ゆっくりとグラスにお酒を注いだ。

「えへへ」お酌が終わって、思わず笑みがこぼれちゃう。「お酌する夢、叶っちゃいました」

 言いながら、私は瓶を器に戻した。

「じゃあ、さっそく乾杯しよう。成人おめでとう、千枝」

「ありがとうございます。乾杯」

 グラスを合わせる。千枝、と名前で呼んでもらえたことが嬉しくて、お酒を口にする前に酔っぱらってしまいそうだった。
 お酒を口に含んだけれど、味なんて気にしている余裕はなくて、視界の端ではあの人の喉仏が動くのを見つめていた。

「んん、美味いね」

「甘くて、美味しいです」

 私はグラスを片手に、仕事のお芝居でしたことのある仕草であの人に向かって微笑みかけてみる。
 自分でもびっくりしていた。気持ちが伴うと、こんなに自然な言葉と表情が出るものなんだ。
 それから、私たちはしばらくの間、つぎつぎに運ばれてくる桃華ちゃんのお家のコックさんのお料理とともに会話を楽しんだ。
 私の近況は頻繁に伝えているので、元プロデューサーさんが退社してからのプロダクションの様子についての話題が主だった。
 うれしくて、ついつい早口になっちゃう。お酒が回ってきもちよくなっていたのもあるのかもしれない。
 私の三杯目のグラスが半分くらい空いた頃、シフォンケーキとコーヒーが運ばれてきて、スーツ姿の初老の男性が、お料理がこれで終わりだということを教えてくれた。

「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした。どのお料理もとっても美味しかったです」

 お礼を言うと、男性は丁寧に頭を下げて、お部屋から出て行った。
 私は手元に運ばれたカップから立ち上る湯気を見つめていた。

16 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:48:20 ID:ohA
 これで、夢みたいな時間は終わり。ここからは、私が今日絶対にすると決めていた勝負の時間だ。
 元プロデューサーさんに私の気持ちを伝える。
 あの人が比奈さんとしている、十年後もお互いに独身だったら結婚するという約束。それよりも、私の想いは、ここまでに重ねたアプローチは、あの人の心に近づくことができていただろうか。
 その答えを、今日確かめるんだ。
 私はあの人の顔を見て――頬が緩んだ。
 あの人にも私の緊張は伝わってしまったみたいだけれど、やっぱり、顔を見ているだけでも、幸せだと思った。

「……いただきましょう」

「そうだね」

 そう言葉を交わしてからは、二人とも無言でシフォンケーキとコーヒーを頂いた。
 ケーキはふわふわで、すっごく美味しかったのだけど、緊張しすぎてきちんと楽しめないのが申し訳なかった。
 コーヒーを飲んでいるあいだに、ドキドキはすこしくらい治まるかと思ったけれど、そんなことは全然なくて。
 怖くて、でもあの人と二人きりの時間が終わってほしくなくて、ゆっくり手を動かしたけれど、ついにお皿もグラスも空になっちゃった。
 私は、ぎゅっと目を閉じて、自分を奮い立たせる。

「……今日は、ほんとうにありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとう。もう千枝のプロデューサーでもないのに、呼んでくれて」

 穏やかな声。コドモのころからいつも聞いていた、優しくて安心する声。

「でも、私にとっては大事な約束でしたから」

 そう、大事な約束だった。最初は背伸びしたくて言っただけの言葉だったけれど、大事にしているうちに、宝物になった。
 私は右手を胸に置いて、深呼吸した。これから言うことは、間違えたり、言い洩らしたりしたくない。
 お芝居をするときみたいに、集中するように自分に言い聞かせる。

「……私、オトナになりました。……コドモの頃は、オトナになったら、いろんなことができるようになって、緊張するようなときも、ドキドキしないでちゃんとできるんだろうって思ってました。
けど……やっぱり、オトナになっても、ドキドキするんですね。……はぁ」息を吐くだけで、魂まで抜けて行ってしまいそう。「いまも、すごくドキドキしてるんです」

 笑い顔を作ると、ほんのすこしだけ気持ちが軽くなった。

17 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:48:54 ID:ohA
「……うん」

 あの人は、私のことをじっと見つめて返事をしてくれた。
 それで、私はむずかしく考えることをやめた。私をずっとプロデュースしてくれていたこの人は、どういう返事をするのであれ、私の言うことをちゃんと受け止めてくれるから。
 考えるより先に、口をついて言葉が出る。

「すごくドキドキしてるんですけど、今日はほんとうに、すごく嬉しかったんです。……だから、これからも、また……えっと、会って、欲しいです。昔みたいに、ううん、昔よりもっと近い距離で、一緒に、歩いていきたい……です」

 ……ああ。言っちゃった。
 私はぎゅっと目をつぶった。ちゃんと言えてよかった。ひとまずの安堵の気持ちで、わたしはひとつ呼吸する。
 目をあけると、そこには大好きな人の顔。まぶしすぎて目を細めた。
 返事を待つ。きっと、ほんの少しの時間なのに、永遠みたいに感じられた。

「……ありがとう」

 あの人は優しくそう言って、私の頭にそっと右手のひらを乗せる。
 コドモの頃は、よくこうして頭を撫でてもらった。
 オトナは、簡単に相手に触れたりしないし、できない。
 あんなにオトナになりたいと思っていたはずなのに。今は、もう一度コドモに戻って、あの頃みたいに頭を撫でてもらいたいと思っていた。
 でも、あの人の手と指は、私の頭の上から、そのまま私の後頭部、うなじを滑って、背中に回る。
 私がその仕草に驚く間もなく、あの人は立ち上がって、私の身体をその胸の中に抱きよせた。コドモにはしない、オトナの仕草だった。
 私の心臓が破れそうなくらいに鼓動して、両の頬は耳の先まで燃えるように熱くなって、でも鼻はあの人の匂いを記憶に強く刻み付けていて、口は息ができないくらいびっくりしてるのに、声をあげたいくらいに嬉しくて――

「嬉しいよ。千枝に、釣り合うかどうかわからないけど――」あの人は、私の右の耳に、小さな声で言う。「これからもよろしく、千枝」

 私は返事の代わりに、あの人のシャツの胸のところをぎゅっと握った。
 ねえ、千枝。コドモだった頃の私。今まで宝物をずっと守ってくれて、ありがとう。憧れてたオトナになるって、すっごくすっごく、幸せだよ。
 うれしくて、涙がこぼれる。
 私は、今までの人生で一番の時間を噛みしめていた。

18 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:49:23 ID:ohA
 あの人が退室するのを見送ってから、私は自分のバッグを取った。鏡で顔を見ようとして、ふと思い出す。

「そうだ、あのおまじないのお人形」

 私があの人に想いを告げる勇気を出せたのは、お人形に背中を押してもらったからだったのかもしれない。
お人形のルールのとおり、次の人に渡す前に、お人形にお礼の言葉をかけよう。

「……あ……」

 バッグの中をのぞき込んだ私の口から、声が漏れる。
 先割れスプーンでできたお人形は、その柄のところからぽっきりと二つに折れてしまっていた。

「……ありがとう、おつかれさま」

 私は、人形の頭のところに触れて、心からのお礼の言葉を言った。

19 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/09(火)23:50:32 ID:ohA
続きは明日に投稿予定です。

そういえば書き忘れましたが
先輩プロデューサーが過労で倒れた

ともちょっとだけ関連あります。

また、パートによって視点・人称がかわります。ご了承くださいませ。

22 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:31:10 ID:Lv9
2.佐々木千枝(20)と元Pはともに歩んでいく

Scene-n1-6(+9y)
「それでは、えーと……カンパーイ!」

 居酒屋の個室に川島瑞樹の飛びぬけて明るい声が響き、三つのジョッキが重ねられる。

「ちょっ、ちょっと、ノリで乾杯しちゃったっスけどなんスかこれ、何の乾杯なんスか?」

 荒木比奈はやや芝居がかった明るさで、テーブルの向かい側に座る瑞樹に言う。

「えーと、じゃあ眼鏡に!」

 比奈のとなりに座った上条春菜は自分の眼鏡を指さす。

「いや、ちょっと意味が判らないっス」

 比奈は言いながら、鼻の下に付いたビールの泡をおしぼりで拭った。
 瑞樹と春菜は眼を合わせる。

「千枝ちゃんにおめでとうがまずひとつよね」

 瑞樹は言って、目で春菜にバトンを渡す。

「……そっち先に取るのずるいですよ瑞樹さん。ええと、比奈ちゃんのお疲れ様会ですっ」

 春菜はあえて明るく言い、比奈の肩をぽんと叩いた。

「え、千枝ちゃんは判るっすよ。ブルーナポレオンのときのプロデューサーにアタックし続けて、ついにオーケーもらったって人づてに聞きました。でもなんでアタシが……?」

「いいのよ、比奈ちゃん! 皆まで言わないで!」瑞樹は手のひらで比奈を制する。「ほら、九年前に、十年経ってお互いに独身だったら結婚するって約束してたでしょ? 約束まであと一年だったから」

「ちょ、ちょっとちょっと!」比奈は狼狽する。音を立てて机に置いたジョッキの中でビールが跳ねた。「今その話っスか!? そもそも春菜ちゃんは、まだこの話知らないはずで」

「えっ?」春菜は意外そうな声をあげる。「八年前でしたっけ、ライブの打ち上げの席で自分から話してましたよ? ひょっとして、秘密でした?」

 比奈は目を丸くした。

「えーと、もしかして……ほかにも誰か知ってるんでしょうか」

「プロダクションの元も含めたアイドルで考えたら、知らない人を数えるほうが早いかもしれないわね」

 瑞樹が言う。比奈は黙ってテーブルに突っ伏して頭を抱えた。

23 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:32:20 ID:Lv9
「あの、比奈ちゃん、ごめんなさい」

 春菜の謝罪を、比奈は突っ伏したまま手のひらを春菜に向けて止めた。

「いや、アタシがお酒で口を滑らせたっスね……不覚っス……」

「だから、比奈ちゃん傷心かなって思って、スケジュールの都合が合った私たちが話を聞こうっていうことになったわけよ」

 瑞樹はお通しの枝豆をつまむ。

「あー……」比奈は顔をあげると曖昧な声で言った。「まぁ確かに、この前に瑞樹さんと心さんに話したように、意識してないって言ったらウソになるっスけど……どっちが先に恋人を作るかって話でしたから、勝負はアタシの負けってことになるっスね」

 春菜はタッチパネルでの注文を終えると、ジョッキのビールを一口飲んでから言う。

「比奈ちゃん、あの人とすっごく仲良かったじゃないですか。だから、てっきりそのまま十年経って、結婚するのかと思ってました」

「仲……そうっスかねぇ、あの人にとっちゃ、年下で歳も近くてとっつきやすかったんじゃないスか? 一応成人してましたし」

「そういえば、私だけ彼からずっと敬語使われてたわね……でも、年下っていうなら沙理奈ちゃんだって一緒でしょう?」

 瑞樹は言いながら口をとがらせて見せる。

「アタシみたいなオタク女が相手ならあの人も気取らなくて楽だったんじゃないスか? 好みのタイプとかそういうのは別っスよ、きっと」

 比奈は言いながら、パネルでビールのお代わりを注文した。
 瑞樹と春菜は一度目を合わせる。それから、瑞樹はぐっと身を乗り出すようにした。

「比奈ちゃん、実際……彼とはなにもなかったの?」

「そうですよ! せっかくの約束だったのに」

 春菜も比奈に詰め寄るようにする。

「な、な、な」比奈は後ずさる。「いや、だからあの人はそーいうんじゃなくて。えーと、……何もなかったっスよ……?」

 比奈が両手を振って弁解したとき、ビールが運ばれてきた。比奈は不自然に大きなリアクションでそのビールを受け取ると、ぐいと勢いよく煽った。

24 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:33:12 ID:Lv9
 一時間後。

「だからぁあ、何もなかったんスよぉ! ……なにも……うぅ……」

 比奈はジョッキを片手に持ったまま机につっぷして、ジョッキを持っていないほうの手で食べ終わった焼き鳥の串を弄っていた。

「ちょっとやりすぎちゃったかしら」

 瑞樹は腕組みして唸る。

「いや、比奈ちゃん自分からビールがぶがぶいってたんで、たぶん溜まってただけだと思います」

 春菜は酔い覚ましのために、タッチパネルでサービスの水を注文していた。

「……なにも、しなかったんス。アタシは……あの人との勝負っていうか、約束に甘えて、ただ十年経つのを待ってただけだったんスよぉ……ぅぅ」

 比奈は拗ねるような声をあげた。

「比奈ちゃん……ほんとは、彼のこと?」

 瑞樹は容赦なく尋ねる。春菜が苦笑いしていた。

「ハイ。あのー、意識してたっていうか、その……いいなって、思ってました……そうスね、好きだったっス。ハイ。好きでした……ああ、恥ずかしいっスね、これ……黒歴史確定っス」

「全部吐き出しちゃいなさい、今日は無礼講よ」

 瑞樹は優しく声をかけるが、その口角が上がり切っていたのを春菜は見逃さなかった。
 比奈は瑞樹の言葉が聞こえているのかいないのか、話し続ける。

「惚れてたっスけど……でも、千枝ちゃんとくっつくなら、それはそれでいいんスよ。千枝ちゃんもプロデューサーも……あ、『元プロデューサー』でしたね……二人とも大事な仲間っスから。
大事な仲間が幸せなら、こんなに嬉しいことはないっスよ、実際……でも、アタシはなんにも動かなかった結果でこれっスから。アタシ自身に対して、情けないっていうか」

「ほら比奈ちゃん、お水きましたよ、お水飲んでおいたほうがいいですよ」

 春菜は運ばれてきた水のグラスを比奈の前に置く。
 比奈はゆらゆらと身体を起こすと、水を一気に煽った。コップを置くと、深い深いため息をつく。

「あぁ……」比奈は眼鏡を外して眉間の辺りに指を当てる。「仕事仕事って言ってたら、独り身のままでいつのまにかもう三十路っスかぁ……」

 比奈は自分のことを振り返って悪気なく言ったのだろうが、春菜はその言葉を聞いて思わずむせてせき込んだ。

「まさかの流れ弾ね……」

 瑞樹は口元を押さえて低い声で少し笑った。

25 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:33:37 ID:Lv9
Scene-n3-1(+9y)
 トップアイドル、佐々木千枝のアイドル休業宣言は芸能界の激震となって瞬く間に日本中を駆け巡った。SNSの話題トレンド一位を独占、各ニュースサイトでもトップで扱われ、テレビ放送のワイドショーでも長時間の放送枠が取られ、主要駅では号外までもが配られた。
 千枝とプロダクションはその理由を一切明かさなかった。週刊誌の記者たちはプロダクションの他のアイドルや、もしくは関係者を通して探ろうとしたが、誰も口を割らなかった。
 無粋なものは自宅に貼りつこうともした。しかし、情報が発信されたとき、既に千枝は家族ごと元の住まいを離れていた。マスコミ各社は完全に千枝の行方を見失っていた。
 いかに美城プロダクションが業界で強大な権力を持っているとはいえ、この件で小銭を稼ぐ者がいなかったわけではない。だが、あまりに流通する情報が少なすぎるため、世間の興味はやがて別のところへ移っていった。

 実際の千枝はというと、首都圏でも地元の富山でもない地方の一都市に家族ごと一時的に身を移していた。髪を明るく染め、普段はカラーコンタクトを入れて生活し、ファッションの方向性も清楚な印象から明るくポップな印象のものに変えて過ごしていた。
 約三ヶ月をかけて、佐々木千枝はアイドルから一般人への転身を成功させた。

26 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:34:09 ID:Lv9
Scene-n3-2(+9y)
 千枝が気持ちを伝えてから約半年後。千枝は半年前に想いを伝えた相手と、金沢駅で待ち合わせをしていた。
 千枝は首都圏でも地元の富山でもない場所でしばらく世間の目を逃れたあと、家族とともに富山に戻ってきていた。
 新幹線の改札から降りた想い人を、千枝は強いハグで迎えた。キャップを深く被った千枝は、人目も憚らず自分の頬を彼の胸に押し付けた。

「逢いたかった。……えへへ……待たせてごめんなさい」

 迎えた側が言うにはやや妙な言葉を千枝が言ったので、彼は少し笑った。

「こっちこそ、満足に連絡も取れなくてごめん」

 千枝は身を離す。そして、久しぶりに再会した彼の顔を見つめ、嬉しそうに顔を横に振った。

「ううん。その分、会えたときのうれしさが増えました」

「じゃあ、行こうか。まずは映画だよね。ごめんね、希望聞いてくれて」

「いいんです。私も楽しみだから」

 二人は並んで、すぐ駅前に位置している映画館へと向かった。

27 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:35:50 ID:Lv9
「面白かった……まんまと騙されちゃったなぁ」

 映画が終わり、二人は食事のために近くの市場を目指して歩いていた。

「何回か『あれっ?』って思ったはずなんですけど、宇宙人とのやりとりを見ているうちにそっちに気を取られてしまいました。面白かったです。でも……」千枝はちょっとだけ迷ったような顔をしてから続ける。「せっかく結ばれた旦那さんと別れて、お子さんも喪うなんて、哀しいです」

「……そうだね」

「旦那さんもお子さんも喪うって、主人公は判ってたってことですよね。……どんな気持だったんだろう」

「実際にあの認識になったら、人生についての意識が変わるものなのかもね」

 千枝は本当に悲しそうな顔をして歩いていた。

「……いまこんなことを訊くのは変かもしれないけど、千枝はよかったの? 芸能界の仕事を休んで」

 話題が変わったので、千枝は不思議そうな顔をした。

「ああ……えっと」彼は頬を掻く。「千枝が登場人物のことを考えてる姿を見てて……千枝はいい女優だし、その、もったいなかったんじゃないかな、って」

 彼の言葉を聞いて、千枝は立ちどまる。

「千枝?」

「いいんです」千枝は穏やかな笑顔で言った。「お仕事もとっても充実してたし、実際……お休みするって言ったら、ずっとお姉さんみたいに接してくれてたプロデューサーさんをがっかりさせちゃいました。
でも……どちらかしか選べないなら、今は、大事な人と一緒に過ごす時間を大事にしたいから」

「……そっか。わかった」

 彼がそう言うと、千枝は再び歩き出し、ごくごく自然に彼の手を握った。二人で並んで歩く。やや風があったが天気は良く、歩くのにはいい気候だった。

「……えへへ」

 千枝は笑いを漏らす。彼が不思議そうに見ると、千枝は少し頬を染めて言う。

「手を繋いで歩くの、すごく久しぶりです」

「……ごめん、前にもあったっけ……初めてだと思ってた」

28 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:35:57 ID:Lv9
「コドモだった頃に、お仕事先に遅れそうになって手を引っ張って連れてってもらったんです。……あのときは、遅れることより、憧れてる人に手を握られてることにドキドキしてました」千枝は懐かしそうに言う。
「だから、こういう風に歩くのは初めてです。……手を繋ぐなんて、本当にいろんな人と気軽にしてたはずのことなのに……特別な人とすると、特別なんですね」

 千枝はすぐ隣を歩く彼の横顔を見る。

「目線も、あのころはずっと高いところを見上げてました」

「大きくなったよなぁ」

「そう、大きくなったんです。手のひらだって、ほら、同じくらいの大きさになりました」千枝は彼の手をぎゅっと握る。「もうコドモじゃない、オトナの千枝を見てくださいね?」

「ああ、わかった」

 その言葉に満足して、千枝は再び前を向いて歩いた。

29 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:36:49 ID:Lv9
Scene-n3-3(+9y)
 金沢での逢瀬から二か月後、今度は千枝が首都圏にある彼の自宅を訪れた。
 金沢で逢ったときに、千枝は既に彼から部屋の合鍵を受け取っていた。いくら世間の話題は通り過ぎたとはいえ、首都圏の屋外で佐々木千枝が男性と合流するというのは危険だと判断し、
変装した佐々木千枝が一人で彼の家に向かい、誰にも尾行されていないことを確認して入室し、彼の仕事が終わるのを待つという手段がとられた。
 千枝はその案が不満だった。アイドルを休業し、一般人になったのにも関わらず、好きな人と一緒に居ることに過度に気を遣わなくてはならないのが辛かった。しかし、千枝の安全のためにと言われては無下にもできず、千枝は富山土産の和菓子を片手に、一人で彼の部屋へ向かった
 都心にアクセスの良い住宅街にある単身向けのマンション、その周囲をぐるりと一周して、怪しい人影がないのを確認してから、千枝はマンションのエレベーターに一人で乗り込む。目的の部屋の鍵を開けて、部屋の中に入った。
 彼の家の匂いが千枝の鼻に飛び込む。千枝は意識的に一度呼吸をした。鍵とチェーンロックをかけ、それからすぐに彼が普段チェーンロックまで掛けているのか悩んで、結局そのまま部屋の奥に入った。
 部屋の間取りは1Kで、洋間は家具が置いてあってもやや広く感じた。洋間の入り口から見て正面にモスグリーンのシンプルなカーテンのかかった窓、左手側に大きなテレビモニターと本棚、
反対側の壁際にはシングルベッド。部屋の中心に敷かれたラグの上にはベージュの大きなクッションと、黒いローテーブル。

30 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:37:29 ID:Lv9
 千枝は思わずベッドをすこし見つめて、すぐに視線を外した。今日は一泊する予定で訪れている。
男性が住んでいる部屋を訪れて一泊するとき、オトナとして一般的な観念を持っていれば当然想像すること。覚悟の上でこの部屋を訪れているし、千枝自身が望むことでもあったが、それでも未知の体験には不安があった。
 千枝は頭の中の考えをいったん振り払って、洋間の扉を出てキッチン、トイレ、浴室と位置を確認した。開けてもいいと言われていた冷蔵庫の扉を開ける。いくらかの食材が入っていた。
どんな食事が作れるか考えながら、千枝はスマートフォンで、彼に無事に部屋に到着したことと、食材を使って夕食を用意していてもいいかどうかを訪ねるメッセージを送った。
 千枝は土産をテーブルに置き、荷物を入れたカートを窓際に置くと、その取手にジャケットと帽子と変装用のウィッグをかけて、クッションに背を預けた。
千枝の身体はクッションにずぶずぶと沈んでいく。千枝はそのまま、大きく深呼吸をした。時刻は午後三時を回ったところだった。彼が帰宅するまではまだかなりの時間がある。

「……どう、しようかな」

 千枝は呟いて、クッションにうつぶせになる。それから好きな相手の部屋にいる事実を噛みしめて思わず笑顔になり、目を閉じた。クッションに彼の香りが残っている。千枝はクッションに包まれて、浅い眠りに落ちた。

31 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:38:15 ID:Lv9
 うたた寝から目覚めたのは三十分後だった。カーテンの間から漏れ出る陽はだいぶ傾いた色になっている。千枝はスマートフォンを見るが、返事はまだなかった。
小さな溜息をひとつついて、荷物の中から編み物の道具一式を取り出し、無言で編み始めた。なにか作業をしていないと、自分自身の気持ちのアップダウンに振り回されてしまいそうだった。
 しばらくのあいだ、部屋の中には、壁にかけられたアナログ時計の針が時を刻む音だけが流れ続けた。
 千枝のメッセージに彼からの返事が返ってきたのは午後六時を回った時だった。返信には急な仕事で帰りが遅くなる旨と、冷蔵庫の食品は自由にしていい旨が書かれていた。
彼の帰りが遅くなることは残念だったが、千枝は平日に押しかけているのは自分だから、と言い聞かせる。千枝は立ち上がると、冷蔵庫の扉を開けて、改めて夕食の計画を立てることにした。

 午後九時を前に、千枝はテーブルに突っ伏していた。七時ごろに夕食が完成したはいいが、彼と一緒に夕食を食べたかったので待つことにしていた。空腹だったが、何かを腹に入れようという気にもなれず、ただただ待ちぼうけていた。
 そのとき、玄関のほうでガタガタと音がしたので、千枝はがばと起き上がり、玄関の方へ注目した。それから、チェーンロックをかけていたことを想いだす。千枝はぱたぱたと玄関へ走って行った。
 ロックを外して扉を開く。そこには、すこしだけ疲れた顔をしたスーツ姿の彼が立っていた。

「おかえりなさい」

 千枝は言うなり、彼に抱き着く。

「ごめん、思ったより遅くなっちゃった」

 彼は鞄を持っていないほうの手で千枝の肩に優しく手を添えた。

「いいんです。お仕事お疲れ様でした。えへへ……ずっとこうしていたいけど、お腹ぺこぺこです。ご飯の用意しますね」

 言って、千枝は身を離す。

「待っててくれたんだ。先に食べてて良かったのに」

「一緒に食べたかったから」

 キッチンに向かう。千枝はそれまでの憂鬱を忘れて、鼻歌混じりでコンロの火を点けた。

32 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:39:04 ID:Lv9
 食事が終わり、彼が洗い物をする間、千枝はぼーっとテレビを眺めていた。時刻は夜の十時が近くなっている。テレビでは情報バラエティ番組が流れていたが、千枝の思考はその外側にあった。
 食事は終わった。あとは二人の時間しかない。きっと彼は優しく千枝をリードしてくれるだろう。千枝たちブルーナポレオンのメンバーをプロデュースしてくれたように。
 芝居で恋人役を演じたことはあっても、それは自分以外の誰か、その役の人生で、自分の物ではなかった。演じるのではない、千枝自身で作る甘い時間。
すごく嬉しいのにすごく不安で、千枝はただ、目ではテレビを見ながら、耳ではドアの向こう、キッチンのシンクから聞こえる水音を聞いていた。
 暫くして、洋間の扉が開き、彼が湯気の立ったカップを二つ持って入ってきた。

「あっ、ありがとうございます」

 千枝は姿勢を正す。

「コーヒー、コンビニのプライベートブランドだけど」彼はテーブルにカップを置く。「持ってきてくれたお土産を頂こうと思って。ほんとはお茶が良かったけど、ストックがなくて」

「大丈夫です。コーヒーも合うと思います」

「よかった。じゃ、いただきます」

 それから、千枝は彼と二人で、テレビに向かって横に並んでお菓子を楽しんだ。

「お仕事、忙しいんですか?」

「あー、たまに、急にね。ごめんね、今日は遅くなっちゃって」

「ううん、押しかけたのは私のほうだから」

「これでもプロデューサーやってた頃より時間は安定したんだけどなぁ」

 彼の口からプロデューサーという言葉が出たので、それからしばし昔話に花を咲かせた。
 やがて、カップは空になり、二人の話題も途切れた。
 途切れた瞬間から、千枝の心臓は高鳴り始めた。千枝は視線を落とす。自分の身体の右隣、手の届くところに彼の手があった。この前は自然に繋げた手に、今夜はどうしてか触れられない。千枝はそれでも、そろそろと手を伸ばした。
 ――と、彼の手がすっと動き、千枝の手を取った。

「あっ」

 千枝が無意識に声を漏らす。千枝は顔をあげた。目の前に彼の顔があった。千枝の方を見ている。千枝は息をのんだ。
 彼は優しく微笑んでいた。
 オトナだ、と千枝は思った。気づいたら、自然に目を閉じていた。

33 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:39:32 ID:Lv9
「千枝」

 すぐそばで優しい声がしたと思ったら、右耳の下に彼の指が触れる。そのまま指は頬をなぞって、千枝の顎をほんの少し持ちあげた。
 それと同時に、千枝の唇にあたたかいものが触れた。千枝はぴくりとも動かずに全神経を唇に集中させていた。舌先にはほんの少しだけ苦みを感じた。
 数秒経って、千枝は目を閉じたまま、右手をそろそろと彼の方に動かす。彼の胸の辺りに手が触れると、その手を引き寄せられて抱き締められた。千枝は気絶しないようにするだけで精一杯だった。
そのまま、二人がさっきまで背もたれにしていたクッションに、優しく押し倒される。点きっぱなしのテレビでは芸人のコメントに合わせて笑い声の効果音が流れていた。
 千枝は必死で自分を保ち続けていた。叫び出しそうなくらいに興奮しているのに、その口はぴったりと塞がれてしまっている。出所を失った感情が昂りすぎて、とうとう千枝の眼からは涙が零れた。
 彼はそれに気づいて、ようやく千枝から唇を離した。

「……っ、はっ、はっ、はっ……」

 千枝は短く呼吸していた。心臓は破れそうなくらいに強く鼓動していて、体中が熱かった。頭は風邪を引いたときみたいにぼうっとしていて、涙で彼の顔も天井もぼやけてにじんでいた。
 彼の手のひらが千枝の頭を優しく撫ぜる。千枝はそれでコドモだった頃を思い出し、もう一つぶ涙を流した。
 千枝はなんとか自分を取り戻し、涙を拭う。クリアになった視界には、穏やかな顔で、しかしどこかに不安を抱えたような彼の顔があった。

「……えへへ、嬉しくて、泣いちゃいました……」

 千枝はそう言って微笑んだ。彼は返事の代わりに、もう一度千枝を抱きしめた。

34 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:40:07 ID:Lv9
「ふーっ……」

 千枝はシャワーを浴びながら、自分の顔を両手で覆って深く息をついた。
 千枝がバスルームに入る前に、時刻は十二時を回った。普段ならそろそろ眠たくなる時刻だったが、千枝の頭は覚醒しきっていた。

「ああ、ドキドキする……どうしよう……」

 言いながら、右手で自分の唇に触れた。脳裏に数十分前の行為が蘇る。あの後、彼は寝る準備をしようと提案し、千枝もそれを承諾した。彼が先にシャワーを浴びたので、今は千枝が上がるのを待っているはずだ。
 千枝は自分の胸に手を当てて何度も深呼吸をした。気持ちは少しも穏やかにならない。千枝はシャワーを止めるとバスタオルを取って、自分の身体を丁寧に拭くと、バスルームから出た。
 脱衣所のカーテンからちらりと洋間のほうを見る。戸の曇りガラスの向こうで影が動いていた。さすがに、先に休んだりはしていないらしい。
 千枝は持参したパジャマを着ると、ドライヤーで髪を乾かしながら自分の姿を観察した。持参したパジャマが少しコドモっぽすぎるだろうかと心配する。普段なら気にならないことが、あれもこれも気になってしまう。
 一方で、千枝は嬉しくて落ち着かない心地だった。彼を一晩中独り占めできるなんて、コドモの頃の自分が知ったらどう思うだろうか。
千枝は顔を整え、歯磨きを終えてから、洋間の扉を開けた。そこで、千枝は思わず一瞬動きを止めてしまった。
 シングルベッドのとなりの床にも、一組の布団が敷かれていた。
 どう見ても、彼の分だった。

「お風呂、ありがとうございました」

 千枝は平静を装って、さっきまで着ていた服を、部屋の角に寄せられたカートの中へ仕舞った。

「うん。使いづらくなかった?」

「大丈夫でした」

「ベッド、使って」

 千枝は黙って、小さく頷いた。
 仕方がないかもしれないと千枝は思った。彼は優しいから。どんなときも千枝の気持ちを待ってくれる。さっきキスした時だって、千枝が彼を求めるサインを待って動いてくれていた。
 だから、きっと今もそうなんだと、千枝は考える。
 千枝はスマートフォンの電源を落とすと、彼のベッドに座った。

「電気、消すよ?」

35 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:40:40 ID:Lv9
「はい」

 部屋の電気が消えて、何も見えなくなる。彼が床に敷いた布団へと歩く音が聞こえた。このまま千枝がなにもせずに布団にくるまってしまえば、それでこの夜は過ぎるだろう。
でも、それで終わりなんて。今夜は彼の帰りが遅かったから、もっと、話していたい。傍にいたい。触れていたい。時間も言葉も体温も、全部をもっと共有したい。千枝はそう強く思った。
 千枝は、右手を前に伸ばしていた。
 彼は優しいから、いつだって千枝のサインを待ってくれる。
 千枝がサインを出したなら、すぐに気づいて、千枝の気持ちに寄り添ってくれる。
 千枝の気持ちを受け止めてくれたのだから、千枝も信じて、勇気を出して前に進まくてはいけない。そう千枝は思っていた。
 指先が、布団に入ろうとしていた彼の脇腹に触れた。

「……ん?」

 彼が声をあげた。千枝はそのまま、右手で彼のTシャツをつまんで、軽く引く。

「千枝?」

 彼の手が暗闇の中で千枝を探し、千枝の右肩に触れた。千枝はその手を取ると、自分のほうに引き寄せながら、千枝自身もベッドに身体を横たえる。
 千枝の身体に、優しくて温かい重さが覆いかぶさった。重さの主は右手で千枝の頭の位置を探すと、千枝に口づけをした。

「……ん……」

 千枝はそれに応えながら、彼の背に左手を回して自分のほうに強く引き寄せた。千枝が強く抱きしめただけ、彼も千枝に応えてくれた。
 暗闇の中に唇が行き交う音が何度か響いてから、千枝と彼のやや熱くなった呼吸が続く。

「千枝」

 名前に続いて耳元で甘く好きだと囁かれて、千枝は泣くような短い声で返事をした。

「……嫌だったら、思い切り突き飛ばしてくれていいから」

 今度は優しくささやかれて、千枝は返事の代わりに絡めた右手の指に力を込めた。嫌だと思うなんてことは絶対にないという意思表示のつもりだった。
 千枝は心中で、さすがにこれはコドモの頃の千枝には教えられないなぁと思っていた。

36 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:41:28 ID:Lv9
Scene-n3-5(+11y)
 チャペルの大扉が開き、プリンセスラインのウェディングドレスを纏った千枝が姿を見せたとき、ある者はその美しさに溜息をつき、またある者は感嘆の声を挙げた。
 新郎新婦の親族に加え、美城プロダクション所属のアイドルと、プロデューサーや事務員たちに見守られながら、千枝は父親とともにゆっくりとバージンロードを歩く。
 祭壇の前で千枝は父親の手を離れ、新郎の元へ。
 父親から新郎へ笑顔が交わされる。新郎新婦が並び立ち、賛美歌の前奏が始まった。

 千枝が想いを告げてから二年後、挙式は六月の大安吉日、都内臨海地域の式場で午後に行われた。新郎新婦共通の友人知人となればどうしても芸能関係者に偏る。そのうえ、千枝は世間を大いに騒がせた休業劇の末の電撃結婚である。
混乱を避けたいプロダクション側からの依頼もあって、挙式披露宴のゲストはプロダクション関係者のみに限定とし、新郎の会社や友人たちに向けて祝いの席は別日程で設けることになっていた。
 そのため、式、披露宴会場は美城プロダクションのちょっとした同窓会状態となった。
 ブーケプルズでは龍崎薫がブーケを引き当てた。龍崎薫は大喜びで飛び跳ねたあと、L.M.B.Gの当時のメンバーを集めて記念写真を撮った。
 披露宴では余興としてブルーナポレオンのメンバーが歌を披露した。ステージ演出にも拘った本格的なもので、外向けに出さないのがもったいないという声が聞かれた。
 歓談の時間中、新郎新婦は途切れることなく高砂席を訪れるゲストの相手をしていた。
 そのなかに、千枝のプロデューサーの姿があった。

「千枝、おめでとう」千枝のプロデューサーは、千枝に続いて新郎にも微笑みかける。「あなたも。おめでとう」

「ありがとう」

「ありがとうございます」

 二人で頭を下げる。

「プロデューサーさん」千枝は千枝のプロデューサーをそう呼んだ。「今日はありがとうございます。あのとき、アイドルをお休みするってわがままを言ってごめんなさい」

「ううん、いいの。あなたが幸せなら、それが一番だから。……でも、そう呼んでくれるということは、これからの期待してもいいのかしら?」

「えへへ、まだ、すぐにじゃないけど……」千枝は顔をほころばせる。「もう少し、この幸せを噛みしめてから、またお仕事に戻りたいって思ってます。そのときは、プロデューサーさんと……」

「ええ、そのときはきっと、よろしくね」プロデューサーは新郎を見る。「千枝を必ず、幸せにしてあげて」

「ああ。もちろん」

 プロデューサーと新郎は視線を交わし、最後にプロデューサーがもう一度おめでとうと言って、その場を離れた。

「お知り合いでした?」

「ああ、ちょっと……同僚だしね」

 千枝は不思議そうな顔をしたが、すぐにそのあとに続くゲストとの挨拶に戻った。

37 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:41:58 ID:Lv9
 披露宴が終わり、新郎新婦の見送りでゲストたちは退場していく。なじみの顔、懐かしい顔との挨拶があらかた終わった頃、ブルーナポレオンの千枝を除く四人が二人のところへやってきた。

「二人とも、今日は本当におめでとう。千枝ちゃん、最っ高に綺麗だったわよ!」

 瑞樹が声をかけると、隣に立っていた春菜が大きく頷いた。

「本当に! あの、お願いがあるんですけど」春菜は言いながら、バッグから眼鏡を取り出す。「どうかっ! その姿に眼鏡で、写真を一枚お願いしますっ!」

「えへへ、みんな、ありがとうございます……春菜さん、ぜひお願いします!」

 千枝は春菜から受け取った伊達眼鏡をかける。春菜は当然のように全員分の眼鏡をバッグから取り出すと、それを新郎とブルーナポレオンのメンバーたちに配った。
 遠くで見ていた千川ちひろが状況を察して千枝達に近寄り、春菜からスマートフォンを受け取り、撮影に協力した。

「千枝ちゃん、本当におめでとうっス。幸せになってください」

 比奈は千枝と固い握手を交わした。それから新郎の方を見てニヤリと笑う。

「勝負はアタシの負けっスね。この幸せ者。千枝ちゃんを大事にするっスよ」

 言いながら、比奈は新郎の脇腹を軽く小突いた。

「わかってるよ。ありがとう、比奈」

 新郎は比奈に微笑む。比奈も感慨深そうに微笑んだ。

「千枝ちゃん、本当におめでとう!」

 沙理奈は千枝を抱きしめる。それから、耳元で千枝に囁いた。

「八年前、ブルーナポレオンのラストライブの相談のときのこと、覚えてるよ。千枝ちゃんが勇気を出したから、今があるんだよね。フフッ、背中押して良かった。お幸せにね」

 千枝は小さく「はい」と返事をして、返礼する代わりに沙理奈をぎゅっと抱きしめた。
 瑞樹たち四人が去り、それから数人のゲストを見送って、披露宴は閉会となった。

38 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:42:26 ID:Lv9
「ああ……終わっちゃった……」

 ホテルの部屋に戻り、部屋着に着替えた千枝はベッドに腰かけてぐっと伸びをした。

「お腹空いてない? 披露宴じゃあまり食べられなかったでしょ?」

 同じく部屋着に着替えた彼は、持ち込んだカートの中に脱いだ肌着を仕舞いながら言う。

「ううん、今はまだ大丈夫……お腹がすいていることよりも、胸がいっぱいで」

 千枝はそう言って、両手を自分の胸に当てると、ゆっくりと深呼吸をした。

「……そうだね。たくさん祝ってもらえた。感謝しなきゃいけないなぁ、ほんとに」彼は目を細める。「これからの人生を二人でしっかり生きていくことで、お返ししなきゃいけない」

「……そうですね……」

 千枝は立ち上がり、彼の前に歩いてくる。

「ん?」

 千枝に気づいた彼は、不思議そうに千枝を見た。

「えへへ」千枝は恥ずかしそうに笑うと、ぺこりと頭を下げた。「そういえばまだ、言ってなかったって思って……不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」

「ああ……」千枝の夫は微笑む。「こちらこそ、よろしく」

 そう言うと、二人は顔を合わせて少し笑い、ごく自然に軽い口づけをした。

「さっきのはちょっと訂正」千枝の夫は、腕の中に千枝を抱き寄せる。「二人、じゃないね。みんなで生きてく。これまで出会った人と、これから出会う人と。その人たちに今日、千枝と一緒に歩いていく約束をしたんだもんね」

 夫の腕の中でその言葉を聞いた千枝は、笑顔で涙を一粒零すと、心の底からの返事をした。

「はいっ」

39 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/10(水)19:42:58 ID:Lv9
3.佐々木千枝はあなたに語りかける

Scene-n5-1(+13y)
 秋口のその日は全国的に概ね晴れだった。
 佐々木千枝は鼻歌混じりに洗濯の終わった衣類を篭へ移すと、それをベランダへと運んだ。バルコニーの外の景色にはまだまだ紅葉する気配のない木々が陽光に照らされている。子供の泣き声がどこかの家からかすかに聞こえてきていた。
 千枝は洗濯物を干し終えると、空になった篭を持って部屋の中に戻る。クレセント錠をかけ、レースのカーテンを閉めると、家の中で低い振動音が鳴っているのに気づいた。
 千枝は篭を抱えたまま、音の出所を探す。居間のテーブルの上に置いたスマートフォンだった。千枝はその表示を見る。知らない番号だった。千枝は少し迷ってから、通話ボタンを押し、声を出さずに電話を耳に当てた。

「……はい、そうです」

 千枝は電話の相手が不審な人物ではないと判断して声を出す。
 そして、その十秒後に千枝は、スマートフォンを持っているのと反対の手にあった篭を取り落とし、さらにその二秒後、床にへたり込んだ。

「……うそ……」

 千枝の発した声は殆ど音になっていなかった。


 仙台へ向かう高速道路の出口からほど近い一般道上で事故があった。
 一般道を走行していた車両のフロントガラスが飛び石で破損。大きなヒビが入り、驚いた運転手は道路上でブレーキを踏み急停止。
 背後に続いた車両は衝突を避けるため同じくブレーキをかけ減速したが間に合わず、前の車両をかわすために対向車線に逃げようとした。しかし、対向車線からは別の車両が向かってきていた。
対向車線を走っていた車両の運転手は、はみ出してきた車を避けるために、歩道側に向けてハンドルを切り、歩道に乗り上げた。歩道には、複数の歩行者がいた。
 事故の被害は死者一名、軽傷二名。死者は、その時刻に歩道を歩いていた会社員男性だった。

46 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:42:05 ID:0JO
「ふざけるんじゃないわよっ! 謝れっ! 私にっ! 千枝にっ!」

 通夜の儀式が始まる直前、葬儀場の中に怒号が響き渡った。
 祭壇の前に置かれた棺に、佐々木千枝のプロデューサーが拳を思い切り振り下ろしている。

「やめてください! やめなさい!」

 すぐに会場の係員が複数人駆け付けて、千枝のプロデューサーを取り押さえた。
 棺から引きはがされたが、千枝のプロデューサーは棺に向かってがなり立てる。

「全部っ! 全部奪って勝手に逝くなっ! だからあの時に私の言うことに従ってればよかったのよ! 千枝のことを幸せにするって言ったでしょう! この嘘つき! 大嘘つきっ!」

「プロデューサーさん、やめて!」

 千枝の叫び声が響き渡り、千枝のプロデューサーはようやく喚くのをやめた。

「……お願い……やめて、ください、お願い……」

 うつむいて両手で顔を覆った黒いスーツ姿の千枝は、そう声に出したあとは静かにすすり泣いていた。
 千枝のプロデューサーはそれを見て、視線をあちこちに泳がせ、半開きの口の端をふるふると震わせて、そのあと完全に脱力し、会場係に引きずられるようにして外に連れ出されていった。
 参列者は全員、茫然とした表情でそれを傍観するしかできなかった。僧侶は少し困った様子だったが、咳ばらいをひとつして、進行へと戻った。
 そのあとの儀式の間、千枝はずっと嗚咽を漏らしていて、参列者らは沈痛な面持ちだった。

47 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:42:31 ID:0JO
「……今日のところは、千枝ちゃんと話をするのは遠慮した方がよさそう。少し声をかけてみたんだけど、アタシたちとの思い出が、逆に不安定のトリガーになっちゃうみたい」

 和装の喪服に身を包んだ沙理奈は斎場のロビーに集まっていた元ブルーナポレオンのメンバーたちに言った。

「なにもしてあげられないのは、辛いわね……」

 黒いスーツ姿の瑞樹は下唇を?んで、目尻に溜まった涙を拭う。

「仕方ないですよね。……突然すぎます。私だって、まだ飲みこめてないんです。一番近くに居た千枝ちゃんのショックは、私たちとは比べ物にならないでしょうから」

 ブラックフォーマルドレスの春菜が言う。しばしの沈黙のあと、同じく黒いドレスの比奈が口を開いた。

「……時間しか、癒せないものもあるっス。両家のご家族もいらっしゃるでしょうし、アタシたちができる最善の手段が距離を置くことなら、そうした方がいいっスよね。……やるせないっスけど……」

 比奈は右手の拳を握り締めた。
 ロビーのすこし離れた所にいた龍崎薫が沙理奈たち四人のところに近寄ってくる。

「親族の方たちから、千枝ちゃんのことは親族でフォローするってお話がありました。この会場は、もう撤収するみたいです」

「……じゃあ、退散しないと、かえって迷惑になるわね」

 瑞樹は疲れ切った様子で息を吐く。

「千枝ちゃんのことは、桃華ちゃんがプロダクションと連携してサポートにあたってくれるって……私たちにも連絡が行くようにするって、桃華ちゃんが言ってました」

 薫が言って、皆に目配せをした。

「それなら、ひとまずは安心っスね……行きましょうか」

 比奈はそう言ったが、表情は暗く落ち込んでいた。
 参列した千枝の友人知人ら、プロダクションの面々はそれぞれに沈んだ気持ちで帰路へとついた。

48 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:43:17 ID:0JO
Scene-n5-2(+13y)
 薫に櫻井桃華から連絡があったのは、葬式から一週間が経った頃だった。桃華は千枝の親族とも連絡を取っている。桃華は薫に、千枝の様子を見に行って欲しいと頼んだ。
 葬儀後、千枝は数日のあいだ実家で過ごしていたが、その後、もう一人でも大丈夫だと言って帰宅した。親族としても一人で整理する時間が必要だろうと判断して千枝の帰宅を認め、その後は日ごとに連絡を取っていた。
 しかし昨日から連絡が取れておらず、桃華も使いを出したが、インターホンを押しても反応がないという。
 薫は不安を胸に千枝の自宅を訪れた。入籍後に夫と住んでいた都内の高級マンションで、眺めのいい高層階にその部屋は位置している。
 薫はロビーのインターホンから呼び出したが、応答はなく、ますます不安になる。薫はロビーに立ち尽くして悩んでいた。他の来訪者に紛れてオートロックを抜けるか。
しかし、ロビーには管理人らしき警備服の男性の姿が複数あり、薫も姿を観られている。
 一度、桃華に連絡をとってみようと薫が考えたときだった。オートロックの扉が開いて、中から虚ろな表情の千枝がふらふらと歩いてきた。

「千枝ちゃん!」

 薫は千枝にかけ寄る。千枝は緩慢な動作で薫を見ると、弱々しい笑顔を見せて、そのままロビーの床に崩れおちた。

「千枝ちゃんっ!」

 薫は千枝を抱きかかえた。警備員が小走りに薫たちのところにやってくる。薫は警備員に向かって叫ぶように言った。

「救急車を呼んでください!」

「了解しました!」

 警備員は詰め所の中のもう一人に救急車を呼ぶように指示をした。

「千枝ちゃん、しっかりして、千枝ちゃん!」

 薫の呼びかけを聞いているのかいないのか、千枝は薫に顔を向けて「えへへ」と笑った。

「薫ちゃん、千枝ね、あの人に、プロデューサーさんに、会いたいと思って……」

49 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:44:13 ID:0JO
「……っ!」

 薫は息をのんだ。千枝が言っている『プロデューサーさん』というのは、千枝の今のプロデューサーではなく、千枝の夫のことだと薫は想像した。先日命を落としたばかりの夫に会いたいという千枝の言葉の意味を考え――薫は、千枝の身を抱きしめた。

「千枝ちゃん! だめだよっ! いっちゃだめ!」

 薫は泣きながら千枝に呼びかけたが、千枝は力なく笑うばかりだった。
 救急車はすぐに到着し、千枝を搬送した。千枝は自宅に戻ってから食事も睡眠も殆どとっていなかった様子で衰弱した状態だったが、肉体的には危険はない状態と診断された。

 千枝は目を覚ましたとき、うわごとのように「あれ、また……?」と呟いた。搬送された病室で千枝を看ていた薫と桃華は何のことだろうかと顔を見合わせたが、ひとまず千枝が無事に目を覚ましたことを喜んだ。
数十分のあいだ、千枝は薫たちの問いわけにふわふわとした返事をしていたが、そのあとは少しずつ復調してきたようだった。
 翌日、再び薫が千枝の運ばれた病室を訪れたときには、いつもの千枝に戻っていた。

「心配させちゃって、本当にごめんね、薫ちゃん」

 千枝はベッドに腰かけたまま、椅子に座った薫に深く頭を下げた。

「ううん、何事も無くて本当によかった!」

 薫は笑顔で言ったが、心中では昨日の千枝が言っていた『プロデューサーさんに会いたい』という言葉を気にしていた。その真意を確かめなくてはいけないと考え、薫は心を決める。

「……ねえ、千枝ちゃん、昨日、私と会った時のこと覚えてる? 千枝ちゃん、どこに出かけようとしてたの?」

 真剣な表情で薫は尋ねた。
 千枝もまた、真剣な表情で頷く。

「うん。私ね」千枝は少し視線を泳がせたが、もう一度薫の方を見た。「あのときは仙台に、行こうと思ってたんだ」

 意外な返答だったため薫は一瞬固まったが、すぐに、千枝の夫が事故にあった場所が出張で訪れていた仙台の路上だったことを思いだす。

「……どうして、仙台に行こうと思ったの?」

「小梅ちゃんなら、ひょっとしたら、あの人が視えるかもしれないって思って。だから、小梅ちゃんにお願いして、一緒に仙台に行ってもらおうと思ってたんだ」

50 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:44:44 ID:0JO
「……」

 薫は沈黙した。二つの想いが薫の頭の中に渦巻いていた。
 一つは、千枝が夫の後を追って命を投げ出そうと考えていたわけではなかったことへの安堵。
 もう一つは、たとえ白坂小梅が千枝の夫の霊視に成功したとしても、千枝の哀しみの根本的な解決にはならないという苦しみ。

「そうなんだ」それでも薫は、今は千枝に寄り添うことに決め、笑顔を作った。「でも、私心配しちゃった。千枝ちゃん、ふらふらだったから。千枝ちゃん、私、小梅ちゃんにお願いしてみる! だから、あ」

 薫は、思わず涙を流していた。

「だから、一人で行っちゃったりしないで……私、心配しちゃうよ」

 薫の涙を見て、千枝は薫が膝の上で握りしめている拳にそっと手を重ねる。

「うん、ごめんね、薫ちゃん」

 薫は俯いて、それ以上千枝の前で涙を見せないようにぐっとこらえた。薫は考える。きっと千枝には、まだ千枝自身が夫の死を千枝なりに受け入れることができるようになるための時間が必要なのだと。
そのために必要なことなら、少しでも癒しになるのなら、千枝の思う通りにさせようと。

「私、手伝うよ。だからもう少し休んで、千枝ちゃん。元気にならないと、みんなも安心できないよ」

「うん、ありがとう、薫ちゃん」

 千枝は目を細めて、申し訳なさそうに笑った。

51 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:45:10 ID:0JO
Scene-n5-3(+13y)
 小梅は千枝たちの依頼を快諾したが、千枝たちの前で二つの話をした。
 ひとつは、小梅は千枝の夫の葬儀に出席していたが、会場で千枝の夫の存在を感じはしなかったこと。
 もう一つは、小梅は現場を訪れるが、千枝はそこに同伴してほしくないということだった。

「ときどき、こういう依頼もあるんだよ。……だけど、大切な人が亡くなった場所に行くとね、その人自身が考えてもいなかったこと、いろいろ起こっちゃうんだ。そういうとき、私一人じゃ、千枝ちゃんを守れないから……」

 複雑な思いを孕んだ表情で小梅は言った。小梅の条件を千枝は承諾し、葬儀から三週間後、千枝は仙台駅近くのホテルのデイユースを利用して待機、小梅は一人で千枝の夫が事故にあった現場に赴くことになった。
当日は、スケジュールの空いていた市原仁奈が同行し、千枝と共に小梅を待つことになった。
 仁奈は千枝とおしゃべりをしていたが、千枝は落ち着いていると感じた。三週間の間に、千枝も徐々に気持ちの整理がつき始めているのかもしれないと仁奈は思う。

52 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:45:36 ID:0JO
 仙台駅で別れてから二時間程度経って、小梅は千枝たちの滞在するホテルに戻ってきた。ダメージジーンズにパーカー姿でフードを深々と被り、難しい顔をした小梅は、フードを取らないまま、部屋の椅子に座る。

「小梅ちゃん、どうでしたか?」

 仁奈が尋ねながら、バッグからお茶のペットボトルを取り出し、小梅に渡す。小梅は「ちょっと待ってね」と言ってからしばらく、視線を床に落としたままでなにかを考えていた。長い前髪で両目がほとんど隠れ、仁奈たちからは小梅の表情を伺うことはできない。
 千枝は落ち着かない様子で小梅が話し出すのを待っていた。
 小梅は数分経って、ふーっと息を吐くと、パーカーのフードを外した。シルバーアクセサリーが胸元で小さな音を立てる。前髪を両手で後ろに流すと、濃いブラウンの黒目がまっすぐに千枝を見つめた。見つめられたほうの千枝も姿勢を正す。

「ええと……ごめんね、なにから話したらいいのか、考えてたんだ。最初に、約束するね? これから私が千枝ちゃんに話すことは、全部ほんとのことだよ。……だから、信じてくれると、嬉しいな」

 小梅はそこまで言って、一度表情を崩した。

「……うん。わかった。お願い、小梅ちゃん」

 千枝は頭を下げた。小梅は千枝の意思を確認するようにその目をのぞき込むと、ゆっくりと話し始める。

「今日みたいな、亡くなった人を視てほしいっていうお話があったときはね、依頼してくれた人、大切な人を亡くしちゃった人が、安心できるようにって一番に考えるんだ……いつも、亡くなった人がはっきり視えるとは限らない……ううん、はっきり視えるほうが少ないんだ。
もうそこには居なかったり、ほかにも、亡くなった人とその人を想う人の気持ちがすれ違っちゃってる時も」

 小梅はひとつ息をつく。ペットボトルのお茶を一口飲むと、部屋の窓の方を見て話を続けた。

53 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:46:27 ID:0JO
「私自身もね、視えたり視えなかったりするんだ……体調とか、気持ちの浮き沈みとか……霊能力者っていっても、いつでも完璧に幽霊が視えるわけじゃないんだよ。
でも、調子が悪い時や、相手の思った結果にならない時にはインチキ扱いされちゃったりすることも、あるんだ。だから、依頼してくれた人が安心するような言葉を言うことにしてるんだ」

 小梅は目を細める。何か嫌な思い出があるのかもしれないと千枝も仁奈も想像したが、口を挟むことはしなかった。

「それでね。今日は、私の調子もよかったんだ……怖がらせるわけじゃないけど、この部屋にいる子たちも良く視えるくらいなんだよ」

 仁奈は不安そうな顔をして部屋をぐるりと見渡す。千枝は小梅を真剣な顔で見つめたままだった。

「だから、私も千枝ちゃんの旦那さんが亡くなった場所に行けば、はっきり結果がわかると思ってたんだ……でも……」

 そこで小梅は言葉に詰まった。千枝はハラハラした様子でほんの少し身を乗り出す。仁奈も興味津々と言った様子で小梅の言葉を待った。

「ええと……ごめんね、私の感覚をどう言葉にしていいか、わからなくて……でも、期待させてもいけないから、先に言うね。千枝ちゃんの旦那さんは、あの場所には感じられなかったよ」

 小梅がはっきりとそう言うと、千枝は黙ったまま、ゆっくりと肩の力を落とし、黙って床のカーペットを見つめていた。仁奈は千枝のことを心配そうに見つめている。

「でも……ううん、どう伝えたらいいかな……あの場所には、何もなかったんだ。誰もいなかったんじゃないんだよ。
たとえば……私が霊を視るのを、私にしか見えない、ジグソーパズルに例えるね。誰もいないっていうのは、完成したジグソーパズルには人が描かれていないような感じ。
でも、今日は、ジグソーパズルからピースが抜け落ちちゃってる感じだったんだ。あるべきものがそこにない……」

 小梅は、すこし迷ったような顔をしてから続けた。

「それで、私には、その原因が、千枝ちゃんの旦那さんにあるような気がしたんだ」

54 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:47:26 ID:0JO
「それ、は……?」

 千枝は戸惑ったような声を漏らした。小梅は頷く。

「うん……これも、ちゃんと伝わるかな……ジグソーパズルからピースが抜け落ちていたら、抜けてるピースの輪郭はわかるよね。
それから、周りに描かれてる絵から、抜けたピースに描かれていることがなんとなく予想できると思うんだ……そういう感じに似てる。
何かが欠けちゃってるんだけれど、そこには千枝ちゃんの旦那さんが関係しているような気がするの。……こんなの、はじめてなんだ」

「え、ええっと……」仁奈は右手の拳を頭に当てるようにして戸惑いの声を漏らす。「それじゃあ、千枝ちゃんの旦那さんは、結局、居るんでしょうか、居ないんでしょうか?」

「そうだね……」小梅は背筋を伸ばした。「『居たはずなのに、見つからない』かな」

 小梅の言葉を聞いて、千枝も仁奈もしばし沈黙した。
 仁奈は千枝の表情を伺った。薫から、千枝の様子に注意してほしいと言われていたためだった。小梅の霊視の結果に、千枝はどんな答えを出すのか。
 できれば、夫の影を追うのは辞めて欲しいと、仁奈は思っていた。

「ありがとう、小梅ちゃん」千枝は頭を下げた。「……あの人がそこに居たはずなのに、今は居ない……居なくなっちゃった……なくしたものを見つけるのが得意なのは――」

「……芳乃ちゃん、だね」

 小梅が応じると、千枝は頷いた。

「千枝ちゃん……芳乃ちゃんに、会いに行くの?」

 仁奈が千枝に尋ねる。千枝が返事をする前に、小梅が続いた。

「千枝ちゃん。私も、今日の感覚の正体が何なのかは、気になるよ……でも、千枝ちゃんが旦那さんを追い続けるのは、反対、したいな」小梅は目の前に座っている千枝の手を取る。

「大事なのはね……? いなくなっちゃったっていう事実を受け入れるようになることだから」

「うん」千枝は目を閉じて、空いているほうの手を、千枝の手を取った小梅の手に重ねて包むようにする。「ありがとう。あのね……この前倒れちゃってから、少しずつだけど、あの人がもう居ないっていうことが、受け入れられるようになってる気がするんだ。
だから、今日で一区切りにして、明日からまた毎日を頑張って行こうって思ってたの」

 そこで千枝は一度言葉を切り、うっすらと目を開く。

55 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:47:43 ID:0JO
「今は……すこし、違う気持ち。あの人に会いたいっていう気持ちはきっとこれからも完全には消えないけど……未練じゃなくて、区切りをつけるために、全部やりきっておきたいんだ」

「そっか」

 小梅は穏やかに微笑むと、立ち上がって千枝の身をぎゅっと抱き締めた。
 仁奈はそれを横から見つめ、千枝の表情を伺っていた。千枝が本当にそう思っているのか、それとも夫に会いたいという執念が残っていて、友人たちへの気遣いからそう演じているのか、仁奈には判断ができなかった。

56 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:49:12 ID:0JO
Scene-n6-1(+13y)
 千枝と薫は、鹿児島県の山中に隠れるように存在している神社を訪ねていた。
 依田芳乃は、成人を過ぎたころから徐々にアイドルとしての活動を減らしていき、現在では出身地である鹿児島に身を置くようになっていた。
 しかし明確にアイドル引退宣言をしたわけではなく、美城プロダクションにも所属し続けており、プロダクションの大きなイベントの際には顔を出すこともあった。
 千枝が最後に芳乃の姿を観たのは三年前。千枝が電話をかけると、芳乃はまるでそうなることが判っていたかのような穏やかな口調で、千枝に芳乃の居場所を告げた。
 最寄りの駅から数時間をかけて、芳乃が勤めているという神社までたどり着き、社務所らしき場所で芳乃の友人であることを告げると、壮年の僧侶が千枝たちを奥へと案内した。
かなりの僻地であるにも関わらず、神社の敷地にはそれなりに人の姿が見える。芳乃のファンや、芳乃の力を求めて来る人が今でも多く訪れるらしい。
 千枝たちが通されたのは畳敷きのさっぱりとした部屋で、部屋を中央から二分するようにかけられた御簾の向こうに巫女装束の女性の姿があった。

「芳乃ちゃん……?」

 薫が声をかけると、女性は御簾の間を抜けて千枝と薫の前に姿を現す。二十九歳を迎えた芳乃が静かに微笑んでいた。

「大変お久しぶりです」

 千枝と薫は驚きを隠せずにいた。三年ぶりに観た芳乃は普段から長かった髪を更に伸ばしており、芳乃がまっすぐ立っていても床にまで流れるほどの長さになっていた。
にもかかわらず、毛先に至るまで完璧に手入れが行き届き、艶めいていて、外から漏れ入ってくる陽光を受けて上質の絹糸のように輝いている。
 そして、芳乃の隣には芳乃と同じ意匠の巫女装束を着た小さな女の子が立っていた。年のほどは四歳前後と言ったところか。アイドル時代の芳乃をそのまま子供にしたような姿で、しかし目つきは芳乃の柔和なそれではなく、きりっとした強い印象を感じるものだった。
 千枝も薫も、瞬間的にその女の子が芳乃の子なのかと想像したが、芳乃に尋ねることはできなかった。その女の子はあまりにも子供離れしすぎていた。立ち居振る舞いが大人然とし過ぎている。女の子の形をした器に、別の魂が入っていると言われたほうが納得がいくと、千枝は思った。

「突然、ごめんなさい、芳乃ちゃん」

「気にする必要はありません。どうぞ」芳乃は和室の一角に置かれた二枚の座布団を手のひらで示し、座るように促す。「千枝さんがここを訪れることは、わたくしたちの繋がりからすれば、必然です」

 千枝たちが座布団に座ったのを確認してから、芳乃も畳に座る。さらにその隣に、巫女装束の女の子が座った。子供らしくない丁寧な所作だった。

「あ、あの」薫がおずおずと尋ねる。「その、女の子は……?」

「この子もまた、わたくしと同じ依田の者です」芳乃は薄く微笑む。「この子の力は、わたくしのそれをはるかに凌駕します。かならずや、千枝さんの力となるでしょう」

 う、と曖昧な声を一瞬漏らして、薫は黙った。女の子が芳乃の娘なのかどうかはわからずじまいだった。芳乃はそれを悟れない人物ではないから、言う必要がないか、言いたくないのだろうと薫は想像する。

「さて……千枝さん、こちらへは悩み事の解決のためにいらしたとお見受けします」

「……はい」

「まずは千枝さんのお言葉で、私とこの子にそれをお聞かせ下さい」

 千枝は頷き、夫が亡くなってから現在までの経緯についてを芳乃たちに聞かせた。全てを聞き終えてから芳乃はゆっくりと頷く。

「ありがとうございます。それでは、千枝さんの気と、それに繋がる因果から、探してみましょう。失せてしまったものを、見つけられますよう――」

 芳乃はそう言って、静かに息を吐く。

57 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:49:36 ID:0JO
 その直後に、千枝たちは芳乃の眼の光が昏くなっていくのを見た。隣に座る女の子はぴくりとも動かない。千枝と薫は同時にうっすらと寒気を感じた。周りの雰囲気がにわかに変わったかのように思えたが、芳乃から目を離すことができなかった。
 それは一分にも満たないごく短い時間だったのだろうが、千枝たちには非常に長く感じた。千枝はまるでライブの最中のようだと思った。集中しすぎて、時間の流れが遅く感じる感覚。しかし、今集中しているのは芳乃であり、千枝ではない。
 芳乃がもつ依田の力とは、他人の主観にまで影響するほどのものなのか。だとすると、芳乃の力を凌駕するというこの女の子は、一体どれだけの力を持っているのか。千枝は同じ姿勢のままぴくりとも動かない女の子を横目で見た。
 やがて、芳乃はふーっと長く息を吐く。それと同時に、芳乃の眼には光が戻っていた。千枝と薫も身体に込めていた力を抜く。

「ど、どうだったのかな……?」

 千枝が芳乃に尋ねると、芳乃は再び薄く微笑んだ。

「千枝さんの失くしたものは、この世の人には手の届かないところにあります」芳乃は淡々と言う。「千枝さんと失せ物を繋ぐ縁、気の流れ……それを手繰り、辿りましたが……この世の理の先へと続いており、見通すにはわたくしの力では足りないのです」

「それって……」薫は千枝の方を少し気にして言う。「千枝ちゃんの旦那さんが、亡くなっちゃってるから?」

 薫の問いに、芳乃は首を横に振った。

「いいえ。人の命が尽きたとて、その魂の気は万物を流れ巡り、またゆかりの者の胸の内に。しかし千枝さんの失くしたものは――」

 そこまで続けて、芳乃はふっと微笑む。

「言葉を重ねるよりも、見ていただく方が伝わるかもしれません。わたくしの力では足りませんが、この子ならば、その像を結ぶことができましょう」

 芳乃は芳乃のとなりに座る女の子の頭を軽く撫でると、懐から折りたたんだ八つ切りの画用紙とペンを取り出す。

58 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:50:15 ID:0JO
「さあ、まずは千枝さんの失くしたものを――」

 芳乃が言い、画用紙を開いて女の子の前に置くと、女の子は芳乃から受け取ったペンのキャップを取り、画用紙の上にさらさらと何かを描きはじめた。
 千枝と薫は画用紙をのぞき込むようにする。
 紙の上には、奇妙な図形が描かれていった。

「あっ……」

 千枝がはっとしたような声を挙げ、薫が不思議そうな顔で千枝を見た。

「あの、お人形……!」

 千枝は全身に鳥肌が立つのを感じた。
 女の子が画用紙の上に描いたのは、千枝が松本沙理奈から譲り受けた先割れスプーンのおまじないの人形だった。

「これ、前に流行ったおまじないの人形だよね?」薫は芳乃に尋ねる。「これが、千枝ちゃんの探してるものなの?」

「千枝さんと、千枝さんの想い人。そしてあいどるのみなの縁が、ここに続いています。さきほど、千枝さんから小梅さんの霊視の件を伺いました。
千枝さんの想い人の魂は、今はこの世の理の外、私たちにはたどり着けないところに。しかし、千枝さんの想い人とこの世を繋ぎ、想い人の運命そのものをも書き換えてしまうほどの力を持つのが、この人形です」

「運命を、書き換え……? よくわからないけど、これを作ればいいのかな?」

 薫の発言に、千枝と芳乃は同時に首を横に振った。

「これは、唯一無二のもの。他の物、模造品では代えられない、特別の物です」

「うん。なんだか、判る……」千枝は少し震えているようだった。「でも、このお人形はもう、どこにもないの。壊れちゃったんだ。四年前、私があの人に気持ちを伝えた後に折れちゃった」

「じゃあ、探しようがないんじゃ……」

 薫が落胆したような声を挙げる。が、芳乃は問題ないといった様子で微笑んでいる。

「さあ、つぎは、この失せ物がどこにあるのかを――」

 芳乃が女の子に声をかけると、女の子は画用紙を裏に返し、迷いなくペンを走らせた。
 紙面を左から右に走る二本の矢印。その一方、下側に描かれた矢印の途中にはバツが描かれている。画用紙の上部には一対の人の眼のような絵が描かれ、それらが二本の矢印を見ている。
 描きおわると、女の子はペンのキャップを閉じ、ペンの先で×が描かれていないほうの矢印の途中を指した。

59 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:50:35 ID:0JO
「ほお……」

 芳乃は興味深そうな声を漏らす。

「ど、どういうこと?」

 薫は尋ねるが、芳乃は穏やかな顔で深く頭を下げた。

「わたくしとこの子が導けるのはここまで……あとは、あいどるのみなさまのご縁が、千枝さんを導くでしょう」

 千枝と薫は顔を見合わせた。


 千枝たちが去ったあと、芳乃は女の子を部屋から出て行かせ、一人で畳敷きの応接間に座っていた。
 深く呼吸をして全身に気を巡らせたあと、表情をゆるめて微笑む。

「彼の者の魂の行く末は、そなたの手にー」

 そうつぶやくと、芳乃はゆっくりと立ち上がり、部屋を後にした。

60 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:51:24 ID:0JO
Scene-n6-2(+13y)
「それじゃあ、美城プロチームジーニアス緊急プロジェクト~! 謎解きミッション大会議、テイクいくつだっけ?」

 一ノ瀬志希はみんなの方を振り返る。

「テイクワンだ、茶化すんじゃない天才娘……なんなんだその気の抜けた名前は」

 二宮飛鳥がうんざりと言った様子で足を組み替えた。

「ん~、志希ちゃんが飽きちゃうの防止するためのスパイスかな?」

 志希はぴんと立てた人差し指を下あごに当てて言った。

「どうでもいいけどさぁ、はやくやろうよ」

 双葉杏が頬杖をついて気だるげに言う。
 美城プロダクション内、カタカナのロの字に長机が配置された会議室には一ノ瀬志希、二宮飛鳥、双葉杏、橘ありす、鷺沢文香、そして佐々木千枝が集まっていた。
 依田芳乃に千枝の夫について相談に行った際に、芳乃と一緒にいた女の子が描いた図。その解釈を検討するために集まった面々だった。
 会議室の正面奥には大きなホワイトボードがあり、同じく正面、左奥側に二宮飛鳥、右奥側に一ノ瀬志希。左側に橘ありすと鷺沢文香、右側に双葉杏。手前側の入り口に近い位置に佐々木千枝がそれぞれ座っている。

「検討のために、描かれた図を拡大したものを用意しました」

 ありすが千枝に目で合図すると、ありすと千枝は立ち上がり、ホワイトボードに拡大した図を配置した。図の原本、表側に描かれたおまじないの人形の図と、裏側に描かれた矢印図のそれぞれのコピーが貼りだされる。
 ありすは人形の図を手のひらで指し示す。

「このうち、左側の図は既に判明済みです。先割れスプーンに顔を描き、ハンカチを巻いたお人形を示しています。
堀裕子さんが作ったもので、一昔前にプロダクションからも裕子さんのオフィシャルグッズとして販売されていました」

「あー、覚えてるなぁ。結構流行ってたよね、それ」

 杏が言うと、ありすは頷いた。

「グッズの名前は『さいきっく・おたすけ人形』と言います」

 ありすは手元のタブレット端末に人形の画像を表示させて皆に示す。

「千枝ちゃんの旦那さんの運命を書き換えるのに、これが必要なんだったっけ。この人形のパワーで奇跡を起こすのだ~! で、これって、作っちゃえばいいんじゃないの?」

 志希が言うと、千枝は首を横に振った。

61 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:52:00 ID:0JO
「新たに作られた物ではなくて、オリジナルじゃないと駄目なんだそうです」

 ありすが千枝の言葉を引き継ぐ。

「そのため、このお人形について調べてみました。開発者の裕子さんは完全に忘れてしまっていたのですが、プロダクションの所属アイドルに尋ねて回ったところ、裕子さんがお仕事で参加されたイベントで迷子のお子さんに作ってあげた物がオリジナルのようです。
これが人の手を渡り続け、最後に松本沙理奈さんから千枝さんに渡ったのが九年前」

 ありすは千枝に視線を送る。千枝が続けた。

「それからは私がずっと持っていました。でも、四年前、桃華ちゃんのお家で、あのお人形は折れて壊れてしまったんです」

「ふむ……この人形が千枝にとってのデウスエクスマキナとなる。しかしもうこの世界にオリジナルの人形は存在しない、というわけだね」

 飛鳥が腕組をして言うと、千枝が頷いた。

「じゃあ、手に入れようがないじゃん……って思うとこだけど、もう一枚の図が人形を手に入れるためのヒントってことかな」

 杏が言う。

「芳乃ちゃんと一緒にいた女の子は、この図の上の矢印、バツが描かれていない矢印の途中をペンで示していました」

 千枝が続くと、杏はうーんと唸った。

「矢印はさ、その意味の通りに考えたら時間を表してるよね。左側が過去、右側が未来。たぶんバツ印が描いてあるところが、千枝ちゃんの持ってたオリジナルが壊れた瞬間ってことじゃないかなー」

「その説に異論はない。だとすると、バツがついていない矢印、これはオリジナルが壊れていないセカイを表す、ということか……」

 飛鳥が言い、口元に手をやって考える。

62 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:52:51 ID:0JO
「う~ん、オカルトじみてきたねー?」

 志希は茶化すように言うが、その目は輝いていた。飛鳥は志希に勝気な笑顔を向ける。

「小梅や芳乃さんが出張っているんだ、自然科学で解決できる領域とは言えないさ。ここは自由に発想を飛躍させてみようじゃないか」

「賛成です」ありすが挙手した。「常識にとらわれない思考が必要かと。……人形によって運命を書き換える、と芳乃さんは表現されていたとのことです。
例えば、上の矢印を、過去を改変し未来を変え、オリジナルの人形が壊れなかった世界、と考えたらどうでしょうか」

「ん~? その場合、あたしたちが過去に行く方法が必要になるよねー。タイムマシンでも作るとかー? それは秋葉ちゃんの分野かなぁ」

 志希が首をかしげる。

「あ……!」千枝ははっとした声を挙げる。「前に映画で、観ました……その、異星人と会って新しい認識を獲得し、未来を知るお話。同じように過去を知れれば……!」

「あー、その映画ならあたしも奏ちゃんたちと観たことあるんだけどさー、未来を知ることができても、それを変えられるお話じゃなかったよね?
あの映画、未来を知ることができた主人公は、そのあと自分の身に起こる悲劇は避けられなかったでしょ? あの世界って、運命が決定された世界を描いてるよね」

 志希の指摘に、千枝はがっくりと項垂れた。

「ボクたちがいるこのセカイについての解釈が必要になるということだね」飛鳥は腕組する。「もし、ありすが言うように過去を改変するというのなら、この矢印は途中で枝分かれしていなくてはいけないはずだ。この図はそうではない。ということは……」

「……パラレルワールド」

 今までずっと黙っていた鷺沢文香が口を開いた。皆が文香に注目する。

「……時間旅行をするような物語では、過去を変えれば未来に影響しますが、パラレルワールドでは、それぞれよく似た違う世界が独立して存在しています……
この図で言えば、私たちはオリジナルのお人形が失われた世界に存在していて、別の世界には、まだお人形が失われていない世界がある、ということです」

「あー、実際はそれぞれの世界が未来に向かっていろいろ可能性を持ってるんだろうけど、この図ではややこしくなるから省略してるってことでいいよね」

 杏が椅子の下で足をぶらつかせながら呑気な声で言う。

「そうだね。パラレルワールドは世界線、と言ったりもする。縁があってボクもよく知っているよ」飛鳥がふっと笑う。「その可能性で考えるとしてみよう。さて、どうやってその並行世界に干渉するか、を考えるべきかな」

63 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:54:15 ID:0JO
「んん~、生身の人間にできることかなぁ? 並行世界が存在する可能性は否定しないけど、客観的にパラレルワールドを観測できたっていう話は聞かないな~。
失踪しちゃった人が違う世界に行ってたなんてのはよくある話だけど……都市伝説だよね。どれか試してみようか? 間違えてファンタジーの世界に行っちゃうかもしれないけどねー。
志希ちゃん、行ったことあるよー、ファンタジーの世界」

 志希は矢印図を見ながら言い、笑う。

「やはり、ここがネックですね」ありすが溜息をつく。「現実に、お人形は失われ、千枝さんの旦那さんはその、……亡くなっている。私たちは時間を過去に戻せないし、パラレルワールドに行くこともできない……」

「おっ?」志希がありすのほうを見て目を大きく開く。「ありすちゃん、今なんて言った?」

「えっ?」ありすは不思議そうな声を挙げる。「『時間を過去に戻せないし……』」

「もうちょい前!」

「ええと『千枝さんの旦那さんは亡くなっている』……まだですか?『私たちは』」

「そこだー!」

 志希は椅子に車座になり、右手でありすを指した。その指をそのままホワイトボードに貼られた矢印図に向ける。

「そう、『あたしたち』には行けない。この事実をひっくり返そうとしたって無理。じゃあそれは一旦置いておこう。じゃあ、この上の方に描いてある『目』ってなんだろうね?」

「……それは……」

 ありすはそのまま黙ってしまう。

「神様でしょ」

 呑気な声で杏が言った。気づけば飴を舐めている。持参していたらしい。

「あー、言い方が悪いか。この世界に存在しているものは過去にもいけない、パラレルワールドも観測できない。じゃあ、両方の世界を見てるこの目は何なのかって言ったら、この世界よりも上の次元の何かの目なんだよ」

「そのとーり!『あたしたち』じゃない存在なら、過去にもいけて未来も変えられるかも~! 面白くなってきたね~」

 志希は心底嬉しそうに微笑んでいる。

「さて、そうなると次の疑問は二つだ」飛鳥が右手の親指と人差し指を立てて見せる。「どうやってその上位存在とやらにコンタクトをはかるか。
もう一つは、そもそもそんな存在が居てボクたちを見ているなら、その存在が既に千枝の悲劇を回避しているのではないか、ということだ」

 全員が数秒黙ったが、やがて文香が右手を挙げた。

「……後者について……上位存在は、観察はできても干渉ができなかった、と考えてはいかがでしょうか」

64 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:54:57 ID:0JO
 文香は鞄からハードカバーの本を取り出す。

「例えば、私がこの本の世界の観測者だとします……私はこの本を読むことができて、私の意思でどのページをめくることもできます。……物語を遡って読むことも、先に結果だけを読むことも自由です。しかし、この物語を改変することはできません」

「……でもそれでは、上位存在や並行世界があっても、お人形を手に入れることはできなくなってしまいます」

 ありすの指摘に、全員が溜息をついた。
 それから五秒後。

「来てもらえばいいんだ!」
「連れてくればいい!」

 杏と志希の声が同時に会議室に響いた。

「……えっ?」

 千枝が杏と志希の顔を交互に見る。
 志希は笑顔でぷいっとそっぽを向いた。志希が説明を杏に丸投げしたのだと判断した杏は面倒そうに息を吐いた。

「はぁ、えーと……この世界にもとから居る人なら、この世界に干渉できる。ただし過去や並行世界には干渉できない。
で、上位存在はこの世界には干渉できないけど、過去も並行世界も観察できる。だから、上位存在がこの世界に来れれば、過去や並行世界にも干渉できるかもってことだよ」

「杏ちゃん、さっすが~!」

 志希が拍手する。杏は苦々しい顔を志希に向けた。

「それで、上位存在をどうやってこちらに連れて来るんだい?」

 飛鳥が言う。

「ん~、召喚の儀式? 魔法陣を描いて~、出でよ、我がしもべ~! 志希ちゃんの興味を満たすのだ~!」

 志希はおどけて言う。

「……志希さんの意見は、あながち間違いとは言い切れません」文香が言う。「異なる世界から誰かを召喚する為に、何らかの依代を必要とするのはよくある方法です。たとえば、この世界の誰かの身体に乗り移らせる、などでしょうか……」

65 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:56:01 ID:0JO
「誰か、って……たとえば、私たちとか、ですか?」

 ありすが尋ねると、文香は頷く。

「はい……私たちを物語の登場人物になぞらえるなら、お人形の持ち主か、もしくはそれに近しい方が望ましいのではないでしょうか」

「でも、儀式といっても、どういうことをすれば……」

 千枝が困ったような声で言う。
 誰も返事を返せず、数秒のあいだ沈黙が続いた。

「……誤認させて、繋げばいいんだ」沈黙を破ったのは杏だった。「この世界を見ている上位存在が居るなら、今回の事件に関与する人物で、上位存在と条件が最も近い人物を選んで、その人物を通して、こちらの世界とのつながりを作るんだよ」

「……メタフィクション。第四の壁を破るんですね」

 文香が言う。千枝とありすが理解できていないといった表情をしていたので、文香は続けて解説した。「第四の壁とは、舞台と客席の間にある透明な壁、物語と現実のあいだの境界のことを指します……
物語の世界の住人が、読者や視聴者の存在に気付いているかのように振る舞う演出のことを、第四の壁を破る、といいます。二つの世界のあいだにある第四の壁を破ることによって、矢印図に描かれた目の持ち主をこの世界に招こう、ということです」

「なるほど。さて、そのために選ばれる人物、だが……」

「それなら、一人しかいないよね?『一つ』かな?」飛鳥の言葉に志希が割り込む。「『プロデューサー』だよ。千枝ちゃんと旦那さんの関係に関わる人はほとんどが『アイドル』か『プロデューサー』。
でもアイドルの皆のことは、あたしたちも『千枝ちゃん』とか『ありすちゃん』っていう固有名詞で呼ぶよね。でも、プロデューサーのことはみんな『プロデューサーさん』みたいに普通名詞で呼んでる」

「この世界を観察してる人の職業がたまたまプロデューサーなんて、話が出来過ぎてると思うけど……普通名詞のほうが対象は広いから、アイドルとプロデューサーなら、プロデューサーのほうが可能性は高いだろうねぇ」

 杏は再び頬杖をついた。

「やってみる価値はありそうだ。……まとめてみよう。芳乃さんたちが言うには、千枝の亡くなった旦那さんの運命を書き換えるにはデウスエクスマキナ、スプーンの人形が必要だ。
しかしスプーンの人形はこの世界には既にない。よって人形が無事な世界から手に入れる。そのため、人形のある世界をない世界、両方を観測、任意に干渉可能な上位存在を呼び出す。こんなところか」飛鳥が姿勢を正す。「じゃあ……」

「ちょっと待って」志希が割って入った。「ねぇ、千枝ちゃんは、この結果で何も変わらなかったらどうするの?」

66 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:56:59 ID:0JO
「え……」

 言われた千枝は、それが予想外のことであるかのように返事をできずにいた。

「まぜっかえすな、天才娘」

「大事なことだよ」志希は飛鳥にぴしゃりと返す。「上位存在が手に入れた人形によって千枝ちゃんの旦那さんの死は回避されたとするよね。
上位存在は当然その結果を認識できるけど、もとからこの世界に居るあたしたちはそうとは限らない。
新しいパラレルワールドが産まれるだけで、あたしたちの認識は今のままなにも変わらないのかもしれないし、または今までのことを全部忘れて、新しい世界の記憶に書き換えられちゃうのかもしれない。
前者なら千枝ちゃんの頑張りの結果を千枝ちゃんは知りようがないし、後者なら千枝ちゃんは、これまでのことをさっぱり忘れちゃう。どっちでも、千枝ちゃんの主観は変わらないかもしれないんだよ。千枝ちゃんはそれでもいいのかな~?」

 挑戦するような目で、志希は千枝を見る。
 千枝は黙ってその目を見返していたが、やがて座っていた椅子からゆっくりと立ち上がった。

「……もし、そうだとしても、私はあの人が生きている世界のためにできることがあれば、行動したいと思っています」

 千枝は右手を胸の前でぎゅっと握る。

「あの人に、尋ねたことがあるんです。……もし私と結婚していなかったら、比奈さんと結婚していましたかって」

 千枝の目尻に涙が光る。

「あの人は、そうかもしれない、比奈さん以外のブルーナポレオンの人かもしれないし、誰とも結婚しなかったかもしれない、でもどんな未来だとしても私とあの人の絆は変わらないし、皆も祝福してくれると信じているし、同じように私が別の誰かと結婚しても祝福するって言ってくれました」

 千枝はみんなに向かって笑顔で続ける。

「だから、誰かが幸せな世界があるなら……そのためにできることがあるなら、しておきたいんです。……それが、きっと……私なりの、あの人の死に対する納得の仕方なんだって」

「……満足か、天才娘」

 飛鳥が言うと、志希は頷く。

67 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:57:29 ID:0JO
「千枝ちゃんの意志は聞かせてもらったよ~。……実際、これからのことが成功するのは予定調和みたいなものだからね~」

「……どうしてですか?」

 ありすが首をかしげた。

「打ち合わせの前に聞いた、小梅ちゃんが霊視したときの話。あれは、すでに何かが起こった『結果』ってコトだよ。常識の外側にあるなにかは必ず起こる。たぶん、小梅ちゃんは、これから起こる上位存在とのコンタクトによって書き換わった世界の一端を見たんだよ」

 杏が言う。

「そういうこと~。だから、千枝ちゃんの言葉で確認しておきたかったんだ~。ただ予定調和に乗っかるだけじゃ、志希ちゃんつまんな~い」

 志希は猫のような声を挙げる。

「やれやれ、ともかく結論は出たようだ」

 飛鳥が全員を見渡す。それぞれが飛鳥に向かって頷いた。

68 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:58:17 ID:0JO
 ありすは両手を膝の上に置いて、行儀よく座っている。
 文香は変わらず、落ち着いた様子で自分の目のまえの長机の上に視線を落としていた。
 杏は大きなあくびをして、ポケットからもう一つ飴を取り出し、口の中に放り込む。
 飛鳥は鮮やかな紫色のエクステを着け、志希は机の上に無造作に置かれていた白衣をバサと音を立てて着込んだ。

「ボクたちがここまで話した通りだ。わかるだろう? ……千枝は、ほかならぬキミの助けを必要としているんだ。
こちらとそちらの絶対にも見える境界線、しかしそれは、今なら決して越えられないものではないはずだ。……待っているよ」

 飛鳥はそう言って、意味ありげに笑って片目を閉じた。

「ん~、せっかくだから、志希ちゃんは直接クンカクンカしてみたいなぁ~、だってさっきから、すこーしずつ、でも着実にここに満たされてきてるんだよ? 隠しようもない、すっごくキョーミ深い、キミのい~い匂い……」

 志希の目は、妖しく光っているかのようだ。

「お願いします」

 千枝はまっすぐな目をしていた。
 千枝はピンクのワンピースの上に青いカーディガンを着ている。

「私たちのことが、見えているなら」

 佐々木千枝は、こちらを見ている。
 あなたのことを探している。

「助けてください、……プロデューサーさん!」

 佐々木千枝は、あなたに語り掛けている。
 ――そして佐々木千枝は、あなたの姿を認めて、ぱっと顔を輝かせた。


 第四の壁は破られ、こちらとあちらを結ぶ道が開かれた。
 ここから、あなた、すなわちプロデューサーは、あちらの世界の時を巡り、悲劇的結末の回避を目指す。

69 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:58:47 ID:0JO
4.プロデューサーは運命をプロデュースする

Scene-i1-1(?y)
 あなたは、依田芳乃と共にいた女の子が描き示した、堀裕子が作ったというオリジナルの人形を探す。
 この人形は、櫻井桃華の自宅で、佐々木千枝が想い人に気持ちを伝える勇気を願ったとき、その願いを聞き入れたことで最後の力を使い、壊れた。
 その時点から十年前。この人形は、裕子が営業で訪れていた地方のショッピングモールのヒーローショー会場で生まれた。
 裕子はショーの最中にピンチに陥ったヒーローを救うため、子どもたちがヒーローを応援するエネルギーを自らの持っていた先割れスプーンに集め、ヒーローを助けるというパフォーマンスを行った。
 このとき、たくさんの子供たち、そしてのちに美城プロダクション所属のアイドルとなる南条光の無垢なる祈りのエネルギーが、裕子の先割れスプーンに込められていた。
 ショーの後、このスプーンは、ショーの会場で迷子となった子を母親と引き合わせるため、更に日野茜と裕子、迷子の子どもの願いのエネルギーが込められた。
スプーンは顔を描かれハンカチを巻かれ『さいきっく・わらしべ人形』という名前でこの迷子の子どもに手渡された。迷子の子どもはすぐに母親を見つけることができ、裕子はこの人形が人々の手を渡っていくことを望んだ。
 願いを叶える人形は、こうした偶然の重なりと、裕子のサイキックが交わって奇跡的に生み出されたのだった。
 この後、人形は多くの人の手を渡り歩いた。そのたびに人々のちいさな悩みを解決し続け、自分の想いに蓋をしていたある一人のプロデューサーを再び日野茜たち、担当アイドルたちの元に導いた。
 さいきっく・わらしべ人形はさらにその後も何人かの手を渡り歩き、最後に松本沙理奈から佐々木千枝へと渡された。これがオリジナルの人形がたどった経緯である。

70 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:58:58 ID:0JO
 あなたは佐々木千枝が持っていた人形を手に入れようとした。しかし、どの時間上で手にしても、人形はそれが空中に投影された映像でしかないかのように、実体として掴むことはできなかった。
 どうやら、佐々木千枝とプロデューサーが結ばれた世界では、あなたが既にオリジナルの人形が失われた事実を観測してしまっていることが問題らしい。この世界ではオリジナルの人形を手に入れることはできない。
 しかし、まだ人形が失われていない世界がある。荒木比奈がプロデューサーと結ばれた世界だ。この世界こそが、依田芳乃とともに居た女の子が示した世界だった。
 あなたは、荒木比奈がプロデューサーと結ばれた世界へと向かう。

71 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:59:10 ID:0JO
Scene-i1-2(+9y)
 あなたは深夜の櫻井邸、桃華の寝室にいる。部屋の一角に置かれた天蓋付きの大きなベッドからは、二つの穏やかな寝息が聞こえてきていた。
 あなたはそっとベッドをのぞき込む。姿勢よく眠っている桃華の顔と、桃華に寄り添うようにして眠る佐々木千枝の二人の寝顔がそこにあった。
 佐々木千枝の目尻から頬にかけて、涙の跡が走っている。
 あなたは物音を立てないように、寝室の中を見渡す。ベッドの脇に置かれているナイトテーブル、その足元に置かれた千枝のハンドバッグの中から、銀色のスプーンが顔をのぞかせているのを見つけた。
 さいきっく・わらしべ人形のオリジナルだ。
 あなたはさいきっく・わらしべ人形をバッグから抜き取る。あなたにはわらしべ人形はどうにも心細く、弱っているように見えた。どうやら、この世界の人形も限界が近いらしい。
 人形が壊れてしまう前に、新たな祈りをこの人形に込める必要がある。
 あなたの祈りが、人形の力を少しばかり回復させた。
 さて、この人形を使ってプロデューサーの運命を変えなくてはいけないが、大きな願いを叶えるためには人形の力が足りないようだ。
 あなたは時を駆け、人形の力を再充填することにした。

72 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:59:30 ID:0JO
Scene-i1-3(?y)
 あなたは川島瑞樹のもとを訪れた。

「この人形に、お祈りすればいいの? 変なこと言うのね、熱でもある……ってわけでもなさそうよね」

 瑞樹は不思議そうにあなたを見ている。

「いいわ。ちょっとした願掛けってことでしょ? いつもお世話になってるんだから、そのくらい協力するわよ。貸して」

 あなたは瑞樹に人形を手渡した。瑞樹は人形を両手に抱くようにして、両目を閉じる。しばらくして、瑞樹は目を開けた。

「はい、返すわね。……なにを祈ったか? ふふ、皆がいつまでも仲良く、楽しくやっていけますように、って。あたりまえのことだと思うかしら。あたりまえに思えることだからこそ、ときどき意識しないと疎かにしちゃうじゃない?」

 そう言って瑞樹は微笑んだ。
 人形には、川島瑞樹の祈りが充填された。

73 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)19:59:50 ID:0JO
 あなたは松本沙理奈のもとを訪れた。

「人形に、お祈り? プロデューサー、それ変な人に何かに誘われたりしてないよね?」

 沙理奈は少し不審そうな目であなたを見たが、すぐにぷっと笑った。

「ウフフッ、冗談、そんな顔しないで。プロデューサーの言う事だから、ちゃんと信用してるって。ほら、貸して」

 沙理奈は人形を受け取ると、人形の顔をしばし見つめて、それからその頬のあたりに軽くキスをした。

「はい。何を祈ったかって? うーん、世界平和? あ、嘘ってばれた? 言葉になるようなことじゃなくて、キモチだけ込めた感じかな。何かを今よりも良くするなら、それは神頼みじゃなくて、自分の手でそうしたいから。だから今は私のパワーだけここに注入!」

 沙理奈は歯を見せて笑う。
 人形には、松本沙理奈の祈りが充填された。

74 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)20:00:08 ID:0JO
 あなたは上条春菜のもとを訪れた。

「人形に、祈りを? いいですよ、貸してください!」

 春菜は右手を差し出す。人形を受け取ると、春菜はその顔をまじまじと眺めた。

「プロデューサーさん、ここに……」

 あなたは何も言わずに油性ペンを手渡した。

「さっすが、私たちのプロデューサーさんですね!」

 春菜は鼻歌混じりに人形に眼鏡を書き足す。

「はいっ、この人形に似合うようにアンダーリムにしておきました!」

 人形には、上条春菜の祈りが充填された。

75 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)20:00:27 ID:0JO
 あなたは荒木比奈のもとを訪れた。

「は? 人形に? 祈りを? なに言ってんスかプロデューサー。徹夜明けのアタシでもそんなわけのわからないこと言わないっスよ」

 比奈は眉をひそめた。が、すぐに表情を変える。

「……なんだかわからないっスけど、大事なことなんスね。そのくらいは判るっス」

 あなたは人形を比奈に渡す。

「……」

 比奈は黙って、しばしのあいだ目を閉じた。
 それから、あなたに人形を差し出す。

「何を願ったかっスか? ……秘密っス」比奈は悪戯っぽく笑う。「墓まで持ってくほどじゃないっスけど、プロデューサーが理由を言わないなら、アタシだって秘密にしておくっス。ああ、安心してください、ちゃんと真面目に気持ちは込めました」

 人形には、荒木比奈の祈りが充填された。

76 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)20:00:55 ID:0JO
 あなたは佐々木千枝のもとを訪れた。

「お人形に、お祈りですか?」

 千枝はきょとんとした顔で言い、あなたから人形を受け取る。

「えっと、何かのおまじない、ですか……? わかりました、やってみます」

 千枝は人形を両手で握ると、胸で抱くようにして目を閉じ、静かに祈りを捧げた。

「これで、大丈夫ですか? えへへ、プロデューサーさんのお役に立てたのなら、嬉しいなぁ……なにをお祈りしたか、ですか? ……みんなの幸せが、続きますようにって」

 千枝はにっこりと微笑んだ。

「千枝がオトナになっても、ずっとずっとみんなと仲良しで、みんな元気で居られたらいいなって」

 千枝は人形の顔を見つめて言う。

「お人形さん、よろしくお願いします。えへへ」

 千枝ははにかむ。
 人形には、佐々木千枝の祈りが充填された。

77 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)20:01:14 ID:0JO
 五人のアイドルの祈りによって、人形には巨大なエネルギーが充填された。今のさいきっく・わらしべ人形なら、どんな困難にも打ち勝つことはできるだろう。
 川島瑞樹、松本沙理奈、上条春菜、荒木比奈、佐々木千枝。
 五人からなるユニットの名前はブルーナポレオンという。
 ナポレオン一世が言ったとされる有名な言葉がある。
『余の辞書に不可能の文字はない』。
 ブルーナポレオンと、プロデューサー――すなわち、あなた――の力があれば、不可避の運命と思われた事故すら、回避することができるだろう。
 あなたはさいきっく・わらしべ人形を高く掲げる。
 人形はまばゆい光を放ち、人形自身もまた光と同化していく――
 光の中であなたは、新しい可能性の世界へと笑顔で駆けていくアイドルたちの姿を観た。

 これで、ある世界では荒木比奈の夫であり、ある世界では佐々木千枝の夫であった人物――プロデューサーの悲劇的結末は書き換えられたはずだ。
 さあ、それぞれの世界を観てみよう。

78 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)20:02:03 ID:0JO
5.十年間お互いに独身だったら結婚する約束の比奈とPとオトナになりたい佐々木千枝

Scene-N5-1+(+13y)
 荒木比奈は液晶タブレットに無心でスタイラスペンを走らせていた。
 洗濯機が洗濯終了の音を立ててもう数十分になるが、比奈はそのことも忘れて作業に没頭していた。
 下書きにペンをすべて入れ終わり、比奈はようやくそこで顔をあげて、深く息をついた。
 時間は昼前になろうとしていた。

「ああ、もうこんな時間っスか。……あー、そういえば洗濯物……あとシンクの食器も水に漬けっぱなしっスね……さて、どっちから……」

 ひとりごとを言っていた比奈だったか、ふと、胸の内に不安がよぎった。急に沸き起こったそれは、わけもなくむくむくと大きくなっていく。
 いてもたってもいられず、比奈は立ち上がり、窓から外を見る。
 とてもいい天気だった。
 比奈は部屋の隅のコンセント付近で充電ケーブルを挿しっぱなしのスマートフォンを取ると、アドレス帳のひとつに電話をかけた。
 数回のコールののち、相手が出る。

「……はい。電話なんて、急にどうした?」

 毎日のように聞いている、比奈の夫の不思議そうな声が返ってきた。比奈の夫は今朝から東北、仙台駅付近へ日帰りの出張に出ている。

「……あ」

 比奈は言葉に詰まった。比奈自身もどうして電話をかけたのかわからなかった。ただ、何かに背中を押されるようにして電話をかけた。

「あ、あの、えーと」比奈は理由を探す。「あ、そうっス、朝、ちょっと集中してて、その……行ってらっしゃいが、言えなかったかもって、思いまして……」

 比奈が言うと、電話の相手は少しのあいだ沈黙し、それから吹きだした。

「なんで笑ってるんスか」

 比奈がむくれて言うと、電話の向こうの声はまだ笑っていた。

79 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)20:02:07 ID:0JO
「いや、ごめん……なんか、珍しいなって思って。でも、比奈は言ってたよ。『行ってらっしゃい』って。無意識だったかもしれないけど、ちゃんと言ってた」

「あれっ……そうスか」

 比奈の胸の内の不安が、すっと引いていくような気がした。

「集中してたんだろ。無意識だったんだよ、きっと」

「そう、かもしれないっス。でも、なんていうか……それなら、何よりっス」

「ん」

 比奈にとって心地いい声が相槌を打つ。

「えーと……用事は、それだけっス。お仕事中邪魔して申しわけないっス」

「いや、いいよ。ちょうど仕事の切れ目だったから。比奈こそ、朝から集中してたみたいだけど、休憩はちゃんと取れよ。一人の身体じゃないんだから」

「あ……」言われて、比奈はまだそれと目立たない自分の腹部に空いているほうの手を当てた。「ハイ。もう目途は立ったんで、家事をしたらしばらく休憩にするっス」

「そうして。それじゃ、また」

「はい。お仕事頑張ってくださいっス」

 そして、電話は切れた。
 比奈の胸に渦巻いていた不安はいつの間にか消えていた。
 比奈は窓の外を見て、差し込んでくる陽光に目を細めた。

80 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)20:02:56 ID:0JO
Scene-n5-1+(+13y)
 その日は快晴だった。
 佐々木千枝は鼻歌混じりに洗濯の終わった衣類を篭へ移すと、それをベランダへと運んだ。バルコニーの外の景色にはまだまだ紅葉する気配のない木々が陽光に照らされている。子供の泣き声がどこかの家からかすかに聞こえてきていた。
 とても穏やかないつもの日常のはずだったのに、千枝の心には言いようのない不安が差し込んできていた。
 千枝は手早く洗濯物を干し終えると、空になった篭を持って部屋の中に戻る。理由不明の不安はまだ胸の中にある。
 クレセント錠をかけ、レースのカーテンを閉めると、家の中で低い振動音が鳴っているのに気づいた。
 千枝はどきりとした。
 千枝は篭を抱えたまま、音の出所を探す。居間のテーブルの上に置いたスマートフォンだった。千枝はその表示を見る。千枝の最愛の人からの電話だった。千枝の夫は、日帰りで仙台に出張に出ているところだった。千枝は一旦篭を置いて、受話ボタンを押し、電話を耳に当てた。

「あ、千枝、ちょっと電話大丈夫?」

「はい。どうかしたんですか?」

 返事をして、千枝は、胸の内の不安が氷解していくのを感じた。

「とんぼ返りになりそうだったんだけど、昼に休憩がとれそうだから、駅でお土産を買っておこうと思って。何か希望ある?」

81 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)20:03:21 ID:0JO
「お土産……」千枝は少し考えて、思いつく。「そうだ、仙台駅の中に、眼鏡のお酒が売ってるお店があるって、この前春菜さんが」

「え? 眼鏡のお酒?」

 電話の向こうから素っ頓狂な声がした。

「えーっと……確か日本酒で、瓶のラベルが可愛い眼鏡のイラストだって言ってました。日本酒はあまり飲めないですけど、ちょっと気になったので……」

「そっか。じゃあ探してみるよ。買って帰れたら、春菜やみんなも呼んで呑んでみたいね」

「はい!」

「あとはお菓子なんかを適当に探すよ。ありがとう、また夜に」

「はい、お仕事頑張ってください」

 千枝が返事をしたのちに、電話は切れた。千枝は胸に手を当てる。さっきまでの不安はなんだったのだろうかと考えたが、洗濯の次には部屋に掃除機をかけなくてはいけないことを思い出し、そのまま忘れてしまうことにした。
 千枝は鼻歌を再開し、掃除機を取りに行った。



 どちらの世界も、悲劇は回避できたようだ。
 さらに、エネルギーの十分に満ちた今、アイドル達の未来には無限の可能性がある。
 たとえば――

82 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)20:04:22 ID:0JO
Scene-BN(±0y)
「おはようございます~、っス」

 プロデューサールームの扉が開き、気の抜けた声を発しながら荒木比奈が入ってきた。

「おはよう、早いな……比奈……いくら何でもその恰好は気が抜けすぎじゃないか」

 プロデューサーは部屋に入ってきた比奈の姿を見て呆れたような声を出した。
 比奈の髪はぼさぼさで、両目にはひどい隈、服装はヨレヨレのジャージ上下、やや古くなったスニーカーといういで立ちだった。

「ちょっと進行がギリギリでして……ああ、そっちはなんとかなったんスけど、今日の打ち合わせまで寝ない自信はなかったんで、ちょっとくらい早くてもとりあえずここにたどり着けばすっぽかすのは避けられるかと思ったっス」

 言いながら比奈は大あくびをしてチェアに座る。

「だからってその恰好で外出はないだろ……仮にも一線で活躍してるアイドルだぞ」

「カモフラージュっスよ、カモフラージュ……ふぁぁ」

 比奈は頭をゆらゆらさせていた。

「どうしようもないな……干物女状態で、浮いた話のひとつも無い。こっちとしちゃスキャンダルの心配もなくて助かるけど」

 そう言ってプロデューサーが軽く笑うと、比奈は口をいっと横に開いて抗議の顔をする。

「余計なお世話っス。アタシたちやプロダクション内でこれだけのアイドルや社員が居て浮いた話のひとつもないプロデューサーこそ、もうすこし危機感持ったほうがいいんじゃないスか」

 比奈が言うと、プロデューサーは目を丸くした。

「言ってくれるなぁ。比奈より先には身を固める自信はあるぞ」

「ハッ、そっくりそのままお返しするっスよ。ま、担当アイドルにそんなデリカシーのないこと言えるようなプロデューサーなら、先十年はのんびりしてても楽勝っスね」

「言ってな。十年後後悔させてやるよ」

「ほう、十年後もプロデューサーが独身だったらどうするんスか?」

 挑戦的な目をして比奈が言い返す。

83 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)20:05:09 ID:0JO
「そんときは、そこの干物女でもなんでも貰ってやるよ」

「はっ? 見くびられたもんっスね。アタシがそのとき独身って前提っスか。良いっスよ、プロデューサーが何でも思い通りにできるってんなら、その幻想をぶち壊してやるっス。」

 比奈は両手を妙な形に曲げてプロデューサーを威嚇した。
 即興劇のような言葉の応酬をどこで終えようか二人が思案した時、プロデューサールームの扉が開いた。

「あ、あのっ、おはようございますっ!」

 ランドセルを背負った佐々木千枝が入ってくる。

「え、えっと、外に居たら、お話聴こえちゃって……お二人って、十年経ったら、その」

 千枝は顔を赤くして、困り顔でうつむいてしまう。

「や、あの、千枝ちゃん、これはっスね」

 比奈が弁解しようとするが、千枝は両手で握りこぶしを作り、意を決したように顔をあげて言う。

「えっと、千枝も、十年経ったら、そのときはオトナになります、だから、あのっ!」

 恥ずかしさのあまりに顔を真っ赤にして、そのさきを続けられない千枝が口をもごもごさせていると、再びプロデューサールームの扉が勢いよく開いた。

「話は聞かせてもらったわよ! プロデューサー君! その話、瑞樹もひと口乗るわ!」

 川島瑞樹が入ってきた。場を混乱させようという魂胆が明らかだった。

「えーっと、あの……」

 プロデューサーは苦笑いした。荒木比奈は考えるのを放棄したようで、千枝は相変わらず真剣な表情をしている。

「なになに? なんだか盛り上がってるじゃない」

「おはようございます。どうしたんですか?」

 松本沙理奈と上条春菜が連れ立って部屋の中に入ってきた。

84 : ◆Z5wk4/jklI 平成31年 04/11(木)20:05:58 ID:0JO
「プロデューサー君がね、私たちが十年後も独身だったら、もれなく結婚してくれるらしいわよ!」

「瑞樹さん、いくらなんでも盛りすぎです」

 すぐにプロデューサーが訂正するが、沙理奈も春菜もそれを無視して黄色い声を挙げる。

「なぁんだ、ほら、このお仕事してると色々考えものだけど、それなら安心ね!」

「プロデューサーさん、それって一夫多妻になるんですか!?」

 プロデューサーがひきつった笑いを浮かべ、それから一つ咳ばらいをした。

「あー、それじゃあ、揃ったみたいだし打ち合わせをはじめようか」

「やーん、はっきりしてもらえないと瑞樹困っちゃうー!」

「瑞樹さんっ!」

 しなを作る瑞樹をたしなめるプロデューサーの横で、千枝は心配そうにブルーナポレオンのメンバーたちを見ていた。

「アハハ……なんスかね、これ」

 比奈は頬を掻く。それから隣に立っている千枝の背中を優しくポンポンと叩いた。

「ライバルがいっぱいってことっスかね。がんばりましょー、千枝ちゃん」

 そう言って、比奈は千枝に笑いかけた。
 千枝もようやく冗談だとわかったのか、笑顔になる。

「……はいっ、千枝、がんばります! みんな幸せで、ずっといっしょに楽しく過ごせるといいなぁ……えへへ」

 プロデューサールームからは、それからもしばらくのあいだ、ブルーナポレオンの面々の笑い声が聞こえてきていた。


 アイドルとプロデューサーの数だけ、可能性は拡がっていく。
 プロデュースは、いつまでも続いていく。


<終>



おーぷん2ちゃんねるに投稿されたスレッドの紹介です

元スレ: 十年間お互いに独身だったら結婚する約束の比奈とPとオトナになりたい佐々木千枝
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